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第143話 成人の儀 其の九 ──両方欲しい──
「……は……ぁ……っ」
今までになく甘い声と熱い吐息が、香彩 の口唇から洩れるのを見て、紫雨 がどこか満足そうにくつりと笑った。
そうして名残惜しそうに香彩 の頬を軽く撫でると紫雨 は、先に出ると香彩 に告げた。
「お前はもう少し温まっておいで。風邪でも引かれたら堪らない」
どこかぼぉうとする頭で、そんな紫雨 の声を耳元で聞く。懐かしい口調だと香彩 は思った。確か紫雨 がまだ司徒 だった少年の頃、そんな口調だったのだ。いつの間にかあの口調になったのか、明確な境目を香彩 は覚えていない。ただ懐かしさと親愛の情に、胸が締め付けられるようだった。
だがそれも、態 と耳に吹き付けられる熱い吐息混じりの声に、香彩 の心の中の親愛が、戸惑いながらも劣情へと変わる。
「……潔斎の場で待っている」
「──っ……ぁ……!」
本当に名残惜しいのだと言わんばかりに、一番弱い耳裏を舐め上げられて、紫雨 の熱い口腔内に耳輪を含まれ吸われ、香彩 は色を含んだ声を上げた。
そんな香彩 に紫雨 はもう見向きもせずに、湯槽から上がり、この湯殿から出ていく。無意識の内に視線が彼を追い掛けてはいたが、ついには振り返ることはなかった。
やがて大きく大きく、そしてとても深い息をついて香彩 は、湯槽の縁に腕を組み、顔を乗せたと思いきや、思い切り突っ伏した。
甘さを含んだ紫雨 の一連の動作や言葉を思い出して、思わず大声を上げてしまいたくなるほど、翻弄されている自分に気付く。
予感はしていた。
それこそ大宰私室で紫雨 に接吻 をされた、あの時から思っていたのだ。自分の心の有り様が分からなくて怖い。そして紫雨 の香彩 の存在ごと全てを奪い去ってしまいそうな想いの熱さ、激しさが恐い。一夜だけだと言う彼の、激しさの片鱗をこれでもかと見せ付けられて、香彩 はもう何度目か分からない程、身体を震わせる。
この震えはもう、先程とはまた違った『震え』なのだと、嫌でも気付かされたのだ。
心は違うのだとしきりに騒いでいる。
彼ではないのだと。
心のどこかが、この身体のどこかが、違う、違うと騒いで悲鳴を上げている。
だが心がどんなに叫んでいても、今のこの身体の『震え』は、これから起こることに悦楽を感じ、受け入れてしまっていた。
(──僕は……ついにどこか、おかしくなってしまったんだろうか)
心と身体が色んな感情を伴って散失する。だがある部分の心だけが唯一、細い糸で身体と繋がっている。
それは独占欲にも似ていた。
紫雨 と竜紅人 。
自分の心の中にある、ふたりの立ち位置が明らかに違うのだと、確かに何度も思ったはずだ。
思ったはずだというのに。
両方、欲しいのだ、と……。
立ち位置が違うと分かっているあのふたりの、立ち位置ごと欲しいのだと。
そんなことを考えてしまうのは、今から執り行う儀式に伴う紫雨 の感情に、気圧されてしまっているからなのだろうか。
(それとも……)
心の奥底に横たわっていたものが、表面に現れただけなのだろうか。
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