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第202話 兆しの夢 其の四

 そんな『言の葉』を持ったもうひとりの自分が突如、白い空間の上空から飛来し、香彩(かさい)を後ろから抱き竦める。  半透明なその姿はまさに、意識の奥に存在する、潜在意識そのものだった。  心のどこかでそう思い、隠れていたものが表面化し、香彩を雁字搦めに縛り付ける。    ──最後のあの体勢だってそうだ。  ──あの状態でいくら身体が快楽に酔って受け入れたとしても、心がもう拒否してる。  ──今のこの白い世界での、お前の有り様が物語っているじゃないか。  ──進めないだろう? 動けないだろう? お前を縛り付けているものは、まさにお前の心そのものだ。  心そのもの。  その言葉に、香彩は唯一動く頭を横に振った。 「そんなこと……!」  ──殺されかけた時の体勢だというのに? 「──っ!」  冷やりとした潜在意識の声が耳元を掠めて、香彩は息を詰めながら、その深翠を大きく見開いた。  見ないように、考えないようにしていたことを、これ見よがしとばかりに、目の前に突き付けられて、香彩は奥歯をぐっと噛み締める。  あれはもう終わった話なのだ。  香彩は自分の術力を狙っていた鬼族(きぞく)に、拐われた過去がある。夢床(ゆめどの)を征服され、心の奥に眠るあの出来事を見せ付けられた所為で、自我を失くして鬼に操られた。  操られるがままに感情を紫雨(むらさめ)の前で吐露し、術力を暴発させて彼を傷付けた。  彼が捨て身で止めてくれなければ、鬼の言われるがままに甚大な術力を垂れ流し続け、たくさんの人を傷付けながら、自分も果てていただろう。  全てが終わった後、紫雨から事情を聞いて、謝罪を受けた。自分が気にしていては紫雨が気に病むからと、もう何も考えないようにしていた。  そうやって心の奥底に沈めたはずの『心』が、上から自分を見下ろすあの体勢によって揺り動かされ、目覚めたのだとしたら。  紫雨のことを恐いと思ったことはなかった。ただあの体勢だけは、月日が経ってもやはり駄目なのだと思い知らされただけだ。  するりと。  己の思考に沈む香彩の身体を、若木のように(しな)る白い腕で、潜在意識が後ろから絡め取る。  その異様に長い二の腕が、器用に折り曲げられて、手の五指が香彩の首を艶かしい手付きで覆い隠す。  何でもないその仕草に。 「……っ!」  香彩は息を詰めながらも、ごくりと唾を飲み込んだ。  冷たい汗が、つつと背中を流れて行く。  ああ、駄目だ。  気にしていないなんて、嘘だ。  何も考えないように、何も思わないようにしていただけだ。 (……ああ、だからこんなに簡単に)  揺り動かされてしまう。  見下ろれた体勢と、首に掛けられた手。  それの意味するもの。  潜在意識がくすりと笑う。  その吐息ごと耳に吹き込まれて、香彩はようやく身を捩って抵抗を見せた。  だが潜在意識は腕を増やす。  何本も、何本も。  二の腕の部分だけが、やけに長い白い腕が、香彩の身体全体に絡み付く。  その姿はまるで、蜘蛛に捕らえられた獲物のようだった。 (……ああ、これは)   本当に自分の潜在意識なのだろうか。  姿や形、そして感じる意識は、まさに心の奥底から這い出て来た自分そのものだ。  だが香彩は知っている。  この特徴的な長い二の腕を持っている魔妖(まよう)のことを。  ──でもまあ一番は……竜紅人のことだよねぇ。  ──ねぇ? かさい。  ──お前のその罪悪感ごと、僕が食べてあげる。  くすりと、潜在意識が嗤う。  ああ囚われたのだと思った。  己自身が己の中で飼う、心の魔妖(まよう)に。  香彩様と、幾度も呼び掛ける白虎の声が、酷く遠くに聞こえる。  どうか我々を拒絶なさるなと、声が聞こえる。  潜在意識の長い腕がついに顔にまで及んで、目を、そして耳を覆う。  やがて何も見えなくなり、聞こえなくなり、香彩は潜在意識の連れられるがままに、夢床(ゆめどの)の奥底へ沈んでいったのだ。  

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