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第203話 喪失 其の一

   ゆっくりと目を開ける。  まるで汚泥のようなところから、一気に浮上してきたような、そんな目覚めだった。  ぼぉうとした頭が次第に天井の、見慣れない木目を映す。  軽く肺に空気を取り込めば、どこか懐かしい匂いがした。 (……ここって……?)  香彩(かさい)は身体を起こして確かめようとした。だがあらぬ場所に痛みが走って、顔を歪ませる。全身が怠くて堪らなかった。 (──ああ、そうか)  終わったんだ、と。  そう思った。  まるで永遠に続くかのように感じていた、一夜限りの狂宴が終わったのだ。  鈍く痛む身体を、怠さの残る身体を香彩はゆっくりと起こす。  身に纏う下衣が、さらりと皮膚に触れた。それがやけに心地が良い。紫雨(むらさめ)竜紅人(りゅこうと)、そして自分の体液だらけだったこの身体を、綺麗にして新しい下衣を着せて、ここへ寝かせたのは紫雨なのだろうと、香彩は思った。 (……竜紅人はもう、限界だっただろうから)  本体であれば、何でもないことだったのだろうと思う。だが思念体だというのに肉体を形成して、尚且つ紫雨と自分の為に気を酷使したのだ。 (……もしかしたらもう)  思念体を出すこと事態、もう難しかったのかもしれない。そう思うのは今この場所に、自分の隣に思念体の竜紅人がいない、その気配を感じないからだ。もしも竜紅人がこの場所にいるのならば、自分が目覚めるまでずっと隣にいるはずだ。  そう思うのと同時に。 (──蜜月の真竜をあれだけ拒否した自分が)  不可抗力であれ竜紅人を受け入れたことに、香彩は自分自身が信じられなかった。何という自分に都合のいいことだろうと、そう思う。自分が求めたい時にだけ、竜紅人を求めるのかと。 「……りゅう」  声にならない声で、香彩は竜紅人を呼び、ごめんなさいと呟いた。  だがそれに(こた)える声などない。  まるで世界が自分一人だけになってしまったかのような感覚に、香彩は辺りを見回した。  覚えのあるこの屋敷は、中枢楼閣外に構える紫雨の屋敷であり、ここは自分に与えられた部屋だ。  『大』や『司』の名の付く司官達の多くは、政務室の隣室や近辺に私室があり、普段はそちらで生活をしている。  だが長い休暇を過ごす時は、中枢楼閣外に与えられた屋敷に帰る者もいた。また私室があっても使わず、与えられた屋敷から通いで出仕している者もいる。  香彩は滅多にこの屋敷を使うことはなかった。時折帰る際は、紫雨と共に帰ることが多かったが、年の殆どを私室で過ごしていた。  だから馴染みある屋敷というわけではなかったが、ふわりと香る屋敷の空気が、酷く懐かしさを掻き立てるのも事実だ。

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