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第205話 喪失 其の三

「……なん……で……?」  香彩(かさい)はもう一度、神経を研ぎ澄まして気配を探る。  だがやはり紫雨(むらさめ)の気配は感じられない。 「えっ……?」   感じられないのだ。  それは紫雨の気配だけではなく。 (──何も……何も、感じない)  静かだと、確かに思った。  いつも感じる気配の(ざわ)めきのようなものが、一切感じられないのだと香彩はようやく気付く。 「……」   香彩は無言のまま、震える両手をじっと見つめた。 「……あ……ぁ……」   自然と腹の底から出てくる惨憺たる声を、もう止めることが出来ない。    いつもなら見えるはずの、手の周りの青白く薄い膜のようなものが。  見えないのだ。  感じないのだ。  生まれた時から当たり前に存在し、まるで空気を吸うようにして、無意識に身体に張り巡らせている力、『術力』が。  香彩は鈍く痛む身体を押して立ち上がり、部屋の障子戸を開けた。  外廊下に出てすぐに香彩は、硝子戸の鍵を開け、外へと飛び出す。  馴染みのある中庭だった。  裸足のまま香彩は一歩、二歩と踏み出す。  すぐさま足元が、そして身体が濡れていく。    雨はあれからずっと降り続いていた。  これは兆しの雨だ。  雨粒の小さな雨が、静かに柔らかく全ての生きとし生けるものに、慈しみと育みを与える。暖かなそれに草木は成長し、花の蕾も膨らんで、厳しかった冬がようやく終わる。  雨神(うじん)の儀と呼ばれる祀りがある。  早春の六花(りっか)が風花となって地に消え、ひとたびの颶風(ぐふう)春霖(しゅんりん)の雲を呼び寄せると、まどろみのような気候とは裏腹に、肌寒く時折六花の混ざった長雨となる。  雪神(ゆきがみ)雨神(あまがみ)の交替の時期とされ、雪神(ゆきがみ)が眠りに落ちている雨神(あまがみ)を、起こしに行くのだとされている。  そして目覚めたばかりの雨神(あまがみ)を迎えて讃え、今年の雨を約束させるのだ。  兆しの雨に加わる強い風を、覚醒の颶風という。それはまさに雨神(あまがみ)が目覚め、雪神(ゆきがみ)と交替を果たしたという証だ。  この覚醒の颶風は吉兆とされ、颶風から七日後が雨神の儀の吉日とされている。  まさに春の訪れを告げる雨だ。  だがそんな雨が一時(いっとき)も経たない内に、突き降ろすかのような激しい雨へと変わり、中庭に植えられている木々の葉が、遊ばれるくらいの熾烈な風が吹き始めた。  これが覚醒の颶風なのだということを、香彩は嫌でも知っている。毎年恒例の国行事だ。雨神を召喚し、今年の雨を約束させる為の。  だがこの風が吹いて一体、何になるというのだろう。        

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