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第206話 喪失 其の四
そんなことを思いながら香彩 は、この雨に、風に、誘われるかのようにゆっくりと歩き出す。
この風雨は特別なものだ。
雨神 が降らす、兆しの雨と覚醒の颶風。
この雨に。
この雨に打たれたなら。
取り戻せるのか。
全てを洗い流して、取り戻せるのか。
雨の神様が降らすという、この雨に。
打たれたのなら。
中庭の中央まで来て歩みを止めた香彩は、顔を上げた。雨は激しさを増し、顔に体に叩き付けるようだったが、希うように空を見上げる。
香彩は薄紅色の下衣の、胸合わせ目に右手を差し込み探った。
縛魔師が着用する下衣の胸合わせ目部分の内側には、必ず小さな内袋が縫い付けてある。この中には様々な用途に使える、術力媒体用の札を数枚入れておくことが決められていた。
取り出した札を天へと掲げる。
白地に紅筆で紋様の描かれたそれは、式を飛ばす為の、もしくは式を召喚する為のものだ。
不思議な力を持つその札を、祀祗 札という。雨が染み込み重くなっていく下衣の袖口と袂に比べて、祀祗札は雨に決して濡れることはなく、紋様もまた滲むことはない。
(……ああ、祀祗札は反応している)
己の中にある術力に応えた時、この札は今のような不思議な現象を見せる。
自分の思い違いだったのだろうか。
他の者の気配が全く感じられなかったのも、いつも見えていた自身の術力が見えなかったのも、成人の儀で消耗していたものがまだ回復していなかっただけなのか。
香彩は空いているもう片方の手で、印を結び、『力ある言葉』を紡ぐ。
確かめたかった。
本当に自分は……。
「……伏して願い奉 る」
だが祀祗札は。
これ以上の反応を見せない。
「──伏して願い奉 る!!」
本来ならば初めの言葉で、蒼白い光を帯びるはずのそれは、どんなに『力ある言葉』を叫んでも、呼応を示さなかった。
そんな希う言葉を掻き消すかのように、雨は容赦なく香彩の肌を打つ。
不意に雨が目に入り、香彩は蹲 った。
祀祗札が手から離れ、強い風に攫われて空へ舞い上がる。まるで自らの意志を持って、香彩から遠ざかるかのように。
「……は」
香彩は嗤った。
冷 ら笑って、拳を地面に叩きつけた。
「……こんな……」
土に汚れ、雨にすっかり濡れてしまった、己の手の平を見る。
いつもなら見えるはずの術力の膜が、どうしても見えない。
見えない上に視界がだんだんとぼやけていくのは、どうしてだろう。
(──間に合わなかった……?)
(それとも他に何か原因がある……?)
(何の為に僕は……!?)
──あの狂宴でふたりの前で舞ったのか。
香彩は再び空を仰いだ。
雨が容赦なく、端正な顔を叩く。
耐え切れなくて、目を閉じる。
掻き消されていく哀哭に。
濡れてしまった頬から落ちる雨が、何とも苦い。
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