209 / 409
第209話 紫雨と叶 其の一
「……ああ、構わない。追い返せ」
官能的な低い声の冷ややかに言い放つそれが、皇宮母屋内 にある大宰 政務室に響く。
彼に仕えている司官が、思わず身を竦めた。
「し、しかし紫雨 様。日は浅くとも彼は、大司官 と成られた身。門前払いは失礼に……それに侮られたと陰陽屏の『古参の道師』の者達が何を言ってくるか……」
しどろもどろになる司官に対し、彼は更に言い放つ。
「その古参の狐狸 どもを今まで使ってきたのは誰だと思っている? あまりにも五月蝿く鳴くようならば、無理矢理にでもその口を黙らせるまでよ」
「し、しかし……」
「くどい! ──あいつに伝えておけ。引継ぎは既に終えた。次の国行事まで会うことはない。力量を見せろとな」
「──……かしこまりまして」
一礼をして司官は去る。
それを確認してから、紫雨は大きく息を吐いた。
ここ、皇宮母屋 は麗城中枢楼閣から大庭園を挟んで北に位置する、国主の私室のある場所だ。麗城中枢楼閣を高層の造りにし、入口でもある朱門から一切見えないように造られている。全三層から成り、大宰 政務室は二層に存在した。
大宰 とは大司寇・大司馬・大司空・大司農・大司楽・大司徒という、六つの役所……六司 の統括だ。
本来ならば大宰 を含めて、七人いるはずの官は、つい先日まで六人だった。:大宰(だいさい」であった紫雨が、前任である大司徒 を兼任していたからだ。
紫雨はずっと待っていたのだ。
彼の成長を。
彼が大司徒の位を継ぎ、この皇宮母屋と中枢楼閣を覆い尽くすほどの甚大な『護守』の継ぐ日を。
紫雨は政務室にある格子窓の桟に寄り掛かり、眼下を見下ろした。
それは光のある強い眼だ。
彫りが深く、荒削りな顔立ちと相俟って、見る者に強い圧力を感じさせる。
だがどこか憂いと慈愛に満ちたような深翠の瞳は、彼の感情の現れか、ゆらりと揺れていた。
その視線の先には……香彩 の後ろ姿。
本来であれば紫雨の気配を感じ取り、この格子窓を振り返るくらいはするだろう。
だが今の香彩には人の気配を感じる『力』すら失われている。
紫雨が香彩の『術力の消失』を知ったのは、屋敷に放っていた式達からの報告だった。
成人の儀が終わって数刻後、次の国行事でもある『雨神 の儀』にとって最重要とも言える、覚醒の颶風 が吹いた。
烈風とも言える風が吹き、篠突く雨が降る中、香彩は屋敷の中庭で激しい雨に叩き付けられながら、空に向かって慟哭していたという。
(……祀祗 札も反応を示していたというのに)
発動する前に術力が消えていったのだ、と。
雨の音に掻き消されていたが、その悲痛な哀哭は式達に直に伝わっていた。何故ならその声は僅かに『術力』を含む声だったからだ。
式達はその『直接伝わる嘆き』に身動きすら取れなかった。式達にとって香彩は、主は違えど仕える者の一人だ。無意識の内に『拒否』の意思を示す者に、近付けなかったと言っていい。やがて香彩が雨に打たれながら気を失って初めて、式達は彼を激しい風雨から助け出すことが出来たのだ。
(……香彩……っ!)
紫雨は気付けば、格子窓の桟枠に拳を打ち付けていた。
式達の報告を聞く限り『術力の源』自体は失っていないと思われる。
だが発動しない。
発動する前に術力の喪失が起こる。
(……それは心因ではないのか)
紫雨は再度、拳を打ち付けた。
その心当たりを紫雨は嫌という程に、分かっていた。
だからこそ紫雨はいま、香彩に会うわけには行かなかった。自分が原因だと分かっているのに会ってしまえば、今はまだ無事である『術力の源』を傷付け兼ねない。
紫雨は抱き締めてやりたいと、この腕の中で泣かせてやりたいと思う、自身の心を封じ込める。
「おやおや……。慣れないことをするから、後で後悔する羽目になるんですよ」
ともだちにシェアしよう!