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第210話 紫雨と叶 其の二
不意に聞こえたその声に、思わず反射的に振り返ってしまい、紫雨 は舌打ちをする。気配を辿ればすぐに誰なのか分かったというのに、大きく反応してしまった自分に無性に腹が立った。
彼奴が神出鬼没なのは、今に始まったことではない。それに大局を知るような物言いも相変わらずだ。
紫雨は心の奥底で、大きく息をつく。
「……それは何処から何処までのことを言っているんだ、叶 」
「さぁ」
ご想像にお任せします、と口だけの笑みを見せる。少し無愛想な抑揚のない物言いは叶独特のものだ。
相変わらず悪趣味だな、と紫雨は叶を睨む。
本来ならば主従関係にある二人だ。
だが幼なじみの腐れ縁という間柄の為か、お互いの縦の関係云々は暗黙の了解と化している。しかし気心が知れていて、長年の付き合いがあるとしても、紫雨は未だに叶のことがよく分からないでいた。
その婉曲な物言いは、精神的に余裕のある内なら、言葉遊びに興じるのも悪くはないだろう。言葉の中にある巧みに隠されたものを、暴く楽しみもある。
だが猶予のない時のそれは、実に腹立だしいものだ。
紫雨は心内でそう思いながら、腕を組み室内の壁に凭れ掛かった。
「悪趣味ついでに今回の件について、何か企みでもあるんなら、是非とも教えてもらいたいものだがな」
「身に覚えが無いですねぇ、まだ」
「ほぉう? 燃え盛る炎に油や藁を入れる、張本人がよく言う。好都合だろう。:大司徒(だいしと#の術力喪失は、国の安定と安寧を崩す。徐々に護守 が効力を失って消える。『力』に見張られているお前にとっては、良い環境じゃないのか?」
「国が乱れては、何にもならないですからね。それに次の国行事が『雨神 の儀』ですから、もしもそれまでに術力が戻らず、雨神 の機嫌でも損ねたら凶作。大司農 が黙ってはいませんよ」
「そういう問題ではない。それこそ国が傾く。何としても避けねばならん」
「──会ってあげればよかったのでは?」
「……あの儀式からまだ数日だ。いま会ったところで、余計に精神的負担がかかるだろう。しばらくは声すら、香彩 に聞かせない方がいい」
「確かにその通りですが……だからといって何もせずに放っておいて、術力が戻る可能性はどうなんです?」
「だから……何を企んでいるというのだ!」
声を荒げる紫雨に叶は、してやったりと笑う。
紫雨自身も分かっていたのだ。そんな時間的余裕などないことを。
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