213 / 409

第213話 待ち人 其の二

 独特の流れるような動作と、仙猫(せんびょう)を思わせる、なめらかな体くばりが、彼の中で機能しているはずの関節や筋肉といった、体の器官の存在を忘れさせてしまう。  ただ歩くだけで、周囲の人間に催眠効果のある、舞を見ているような酩酊感を与えるのは、彼が並みならぬ美貌の持ち主だからだろうか。 「……さっきから絡み付く周りの視線は、貴方が来たからだったんですね。咲蘭(さくらん)様」  香彩(かさい)の言葉に、小さく息をつくのは『国主の懐刀』と呼ばれる人物だった。  麗国でも類を見ない漆黒の髪と、黒區色の瞳は、彼の艶美さを引立てるのに充分な材料だ。  名前を、咲蘭という。  彼は国主の補佐と身辺警護を行う大僕(だいぼく)参謀官でもあり、また軍事や警備を取り仕切る大司馬(だいしば)の統括だ。  大僕は主に国主と行動を共にするが、仕事上では大宰(だいさい)との絡みが多い。香彩が大宰私室で暮らしていた時は、よく三人で話をしていた為か、本来ならばあまり接点がないはずの大僕と香彩は仲が良かった。  そして何より咲蘭は、(りょう)の直属の上司に当たる。そちらの繋がりでも、色々と接点があった。 「人のことは言えないでしょう? 話は通してありましたから、先に中で待って頂いてもよかったのですよ」  そう言って咲蘭は、そっと香彩に近付き、軽く耳打ちをする。 「──成人の儀の後ですし、あまり人目に付く場所にいるのはどうかと」 「……」  香彩は無言のまま、ただ曖昧に笑った。  曇りのない深翠の瞳が、切なげに細められる。  見兼ねたように咲蘭が、香彩の頭を軽く撫でた。そして自身が着ていた紅の上衣(うわごろも)を脱ぐと、まるで被衣(かつぎ)のように香彩を頭から覆う。  髪や顔、正装の縛魔服も隠され、見えているのは袴の一部と沓だけだ。  咲蘭様、と呼び掛けようとするそれを、彼が人差し指を口に当てて制す。  そして彼は言うのだ。  どうやら司官の中には、今の貴方が刺激的に見える方がいるようですよ、と。 「手を引っ張って行きますので、茶屋の個室へ入るまでは、どうぞこのままで」  咲蘭はそう言いながら、香彩の手を握り締めて、誘導するようにゆっくりと歩き始めたのだ。  咲蘭に連れられて、行き付けだという朱門内の茶屋に入る。  店主が驚いた表情を見せていたが、刹那に営業用の笑顔を見せて、いつもの部屋を開けておりますと咲蘭に伝える。  店主に礼を言うと咲蘭は、勝手知ったるなんとやらで、香彩の手を恭しく引きながら、個室の中へと入った。  香彩は上衣を返す為に脱ごうとするが、咲蘭に止められる。 「香茶と季節の甘味をお願いしてあるんです。なので、店の者がそれを持ってくるまで、どうぞそのままで座って下さい」  咲蘭がそう言うや否や、個室の引き戸の外から声が掛かる。  本来であれば店の者が室内に入り、給仕を行うのだろう。だが咲蘭は茶器と甘味の乗った盆を受け取ると、店の者に何かを言って下がらせる。  そして盆を卓子(つくえ)の上に置くと、どこか嬉々とした様子で給仕をし始めた。  慌てて香彩は立ち上がり、自分が給仕をしようとするが、咲蘭にやんわりと断られる。何とも言えず、身の置き場のない物を感じながら、香彩は席に着いた。

ともだちにシェアしよう!