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第214話 待ち人 其の三

上衣(うわごろも)、もう脱いでも大丈夫ですよ」   香茶を淹れながらそう言う、咲蘭(さくらん)の言葉に促されて香彩(かさい)は、被衣(かつぎ)のように頭から被っていた咲蘭の上衣を脱ぐ。  丁寧に畳んでいると、目の前の卓子(つくえ)に香茶と季節の甘味がそっと置かれた。 「しかしこれほどとは……」  香彩から上衣を受け取った咲蘭が、香彩を見ながら言う。彼らしくない、まるで全身を見定めるような眼差しに、香彩は気色ばんだ表情を浮かべた。 「──ああ、すみません。ただあまりにも匂い立つようだと思いまして。呼び出しておいて申し訳ありません。ですがあなたのお屋敷まで迎えに行けばよかったと、後悔しておりますよ」  紫雨(むらさめ)に叱られてしまいますね、と話しながら席に着く咲蘭を、香彩は複雑な感情のまま見る。  彼の口から出てきた名前に、苦々しい思いと、寂寞たる思いが心を占めた。  門前払いを食らったのは、つい先程だ。  それは心のどこかにあった甘えという扉を、目の前でぴしゃりと閉められたようなものだった。  自分は一体何をしに、皇宮母屋(こうきゅうぼや)を訪れたのか。  報告か、それとも相談か。  力量を示せという言伝(ことづて)に、居た堪れない気持ちになって、直ぐ様立ち去った。  皇宮母屋を背に早足で歩きながら、どこか裏切られたような気分になったのも事実だった。だがそれこそ自分の心が幼い証拠だと、香彩はぐっと奥歯を噛み締める。   (……それでも自尊心を捨ててでも、求めてしまったのは)   保護ではない。  救いではない。  では、何だ……?  自分はあの人に、何を求めていた……? 「……調子は……いかがですか?」  自分の内側に向いていた意識が、咲蘭の言葉によって浮上する。  香彩は無言のまま、首を横に振った。  成人の儀を済ませてから数刻で、自身の術力の消失を知った。  それから数日は屋敷にて、禊を行い、清めの香を焚き、己と内側と向き合って術力を取り戻そうとした。  だが内側を見つめれば見つめるほど、成人の儀のことを歴々(まざまざ)と思い出し、こんなにも影響を受けていたのだと、己を嗤うしかなかった。そしてこの時に自分が自身に向けて受けた、精神的な過負荷を失くさなければ、術力の消失を防ぐことができないのだと知ってしまったのだ。  発動する前にすっと消えてしまうあの術力を、己の身体に(とど)めることが出来ないのだと。 (……だけどどうすればいいのか、分からない)  もう一度、夢床(ゆめどの)に降りれば何か分かるのかもしれない。夢床は自身の内側の更に奥にある場所だ。自身も気が付いていない、隠された何かが見つかるかもしれない。  香彩は確かに一度、成人の儀の後に夢床に呼ばれて、降りたことを覚えていた。  だが、そこまでだった。  目が覚めた途端、まるで砂上に建てられた楼閣のように、構築された『縛魔師の夢』が崩れ去った。  ただの夢であるように、感じ取ってしまった。  それを認識出来たのは、清めの香を焚いて、己の内側を見つめた時だ。何かあったのだと思うのに、何も思い出すことが出来ない自分がいた。  夢床で一体何があったのか。  もう一度降りようとして、降りることが出来ない事実に、香彩はようやく気付いたのだ。  夢床がまるでその空間を香彩から守るように、香彩自身を拒んでいるのだと。  自分が自分を拒む。  まるで認めたくない何かを見せ付けられた、拒絶反応のように。  

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