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第215話 待ち人 其の四

 咲蘭(さくらん)が香茶をこくりと飲むのを見て、香彩(かさい)もまたこくりと一口飲む。  じんわりと身体の中に広がる香茶の温かさに心が僅かに安らいで、ほぉうと息をついた。  本来ならばこの時期の香茶は、国中に咲き誇る神桜(しんおう)の花片を浮かべて、その香りを楽しむ。だが壌竜(じょうりゅう)が起こしたあの事件以降、神桜はその姿を消した。神桜がいないのだという事実を改めて目の当たりにして、香彩は一抹の寂しさを覚える。  自分の名前の由来となった神桜。  悲観的にならなかったのは、神桜紅竜の魂とも云える光玉と縁の結ばれた『真竜の核』が、自分の中にあることを知ったからだ。  己の内側に神桜がいる。  桜香と壌竜がいる。  だが今の香彩には何も感じられない。  術力が発動する前に消失するこの身の内側に、果たして術力が巡っているのだろうか。『核』と四神が、その存在(かたち)を保っているのだろうか。    静寂が室内を占める。 「──(かのと)が、動いているようです」  それを破ったのは、咲蘭のそんな一言だった。 「……貴方には酷かもしれませんが、それを知らせに参りました」 「叶……様、が……?」  辿々しい口調で香彩が応えを返す。  香茶を飲んだはずだというのに、やけに喉が渇き、舌が貼り付くような気がした。   咲蘭がこくりと無言で頷くと、大きく息をつく。 「大局を見、個を見つめることをしない方だということは、貴方もご存知のはず。『四神の護守』という檻を失った今、檻の為に動いているのかそうではないのか、真実、何を考えているかは分かりません。大局の為に個の何かを犠牲し、それを成す可能性もある。貴方には出来ましたら、いらぬ犠牲が出る前に、術力を取り戻して頂きたいのです」 「……っ」 「──これを」   苦々しい思いを顔に出す香彩に、咲蘭が差し出したのは、一枚の大きな黒い羽だった。 「咲蘭様……これって……!」 「ええ、私の羽です。気休めでしょうが」  咲蘭の言葉に香彩は、勢いよく首を横に振った。  彼もまた人の形をしているが、人ではない。  東国にあると云われている、有翼人の血を色濃く受け継ぐ者だ。  その翼は、羽一枚でも身に付けていると、不思議な『力』が働いて身を護ってくれるという。特に黒翼は瑞祥の象徴であり、魔を払う『力』が強いとされている。   「……もしかしてこれを渡す為に僕を?」 「ええ。さすがに外で公然と、渡すわけにも行きませんからね」  くすりと咲蘭が笑う。  咲蘭が有翼人だと知る者は少ないが、彼は無駄な争いを避ける為に、普段はその黒翼を折り畳み、内へと隠している。  彼らの翼や羽一枚が、闇の相場で高値で取引されているからだ。  彼らの狩猟を商売とする者達がいて、『翼切』という言葉が生まれたほどに。 「──ありがとうございます。咲蘭様」   香彩は深く頭を下げて、懐にある袋に大切に黒羽を仕舞い込んだ。  もしかしたら心と身体を繋ぐ術力の、媒体にできるかもしれない。夢床(ゆめどの)へ降りる為の兆しとなるかもしれない。胸内にあるそれの何と心強いことだろう。決して楽観視は出来ないが、香彩にとってそれはまさに一条の光だった。 「香彩……」   咲蘭が何かを言おうとした、その時だ。  隣の個室に人が入ったのか、騒がしくなった。  

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