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第217話 影 其の一
気付けば香彩 は部屋を飛び出していた。
いけません香彩、と背後から聞こえた咲蘭 の声を無視して、香彩は茶屋を出て、朱門を通り抜ける。
何事かと周りの視線の注目を集めたけれども、香彩は全く気にも止めず、ひたすら走った。
紫雨 のいる皇宮母屋 に向かって。
単なる噂なのかも知れない。
だがあの茶屋の隣室で、話をしていた男の声の一人はきっと縛魔師だ。香彩は縛魔師の『気のせい』だと思う、微かな心の引っ掛かりこそ重要だと思った。
何もなければ、何 も 感 じ な い のが縛魔師なのだから。
(──いま行ったって、会ってくれないのは分かってる)
門前払いされてから、そんなに刻は経っていない。
(……それでも)
影があったのだと。
己の腑甲斐なさの所為で詫びたのだと。
そう聞いてしまっては、居ても立っても居られなかった。
皇宮母屋は中枢楼閣の奥にある、渡床 で繋がっているだけの、独立した建物だ。
朱門から直接皇宮母屋へ向かう場合は、中枢楼閣内を突っ切るよりも、楼閣の外を回った方が早い。
元々、潔斎の場と大宰の政務室と私室、そして国主の政務室と私室しかない皇宮母屋に、用事のある司官など限られているのだろう。
香彩は人気のない楼外の石畳の道を、脇目も振らずに走る。
陽は既に空の頂点より西にあった。
もう一刻もすれば、東西南北の城門の、閉門を告げる銅鑼が鳴り響くだろう。本来ならばそれは、門を守護する四神の役割だ。四神の咆哮が、門の開閉を告げるのだ。だが成人の儀以降、彼らの姿は見えず、鳴き声も聞こえては来なかった。
(……どう思われただろう)
大司徒 の『力』の源でもある『精』に宿る四神と護守を、身体の奥深くに受け取る、契り。
(たかがあれしきのことで、力を喪失した自分を)
あの人は。
不意に香彩は顔を上げた。
「あ」
全身に力が入る。
強張っていたといった方が正しいか。
まさかこんなところで、その姿を見るとは思ってもみなかった。きっとまた門前払いにされる、そう思っていた。
だから心の準備などは、全く出来ていない。
紫雨が皇宮母屋のある方向から、こちらに向かって歩いてくるのが見える。
季節に似合いの藤紫の薄様の衣着と、流されたままの金糸の髪との色彩が、何とも瀟洒な印象を与えていた。
そんな紫雨と視線が合う。
どきりと、胸が高く鳴り打った。
彼の顔を見るのは、実に成人の儀以来、数日振りだ。
思い出されるのは、儀式の時に感じた身体の温もりと、熱い吐息混じりに、何度も自分の名前を呼ぶ、欲に掠れた声。
胎内 を暴かれ、幾度も放たれ灼かれた、白濁の熱さ。
自然と身体が熱くなりそうになるのを、香彩は歯を食い縛り、耐える。
香彩のそれとはまた違った、紫雨の深みのある森色の瞳が、ほんの一瞬だけ淡く揺れた気がした。
だがすぐに刃物の切っ先に似た、鋭い眼に変わる。
その眼光に、思わず香彩は息を詰めた。
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