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第219話 影 其の三

 香彩(かさい)の言わんとしていることが伝わったのか、紫雨(むらさめ)が面白いことを聞いたとばかりに、くつくつと笑った。 「──そうだな。早く祓わねば病鬼に冒されて、体が弱って死んでしまうな」 「……っ!」  だったら……と、言いかけた香彩の言葉を遮るように、紫雨の衣着の袖を掴んでいた香彩の手を、紫雨は腕ごと引き寄せた。  体勢を崩した香彩の身体が、紫雨の腕の中に納まる。  その力強さと熱い体温を感じ取ってしまって、香彩は身体を硬く強張らせた。  だが同時に酷く安心してしまう自分の心に、香彩は(かぶり)を振って拒否をしようとした時だ。  紫雨の骨張った指が、香彩の(おとがい)を掴み、顔を近付けた。 「俺が……道師の狐狸(こり)どもに、頭を下げて祓って貰うような性格だと思うか……?」  紫雨の吐息混じりの言葉が、香彩の色付いた唇に当たる。 「お前が……俺を祓え。香彩」  それは『力』を取り戻せと、でなければ弱って死んでしまうぞと、言ってるのも同然だった。 「紫──……んっ…」  更に言い募ろうとする香彩の唇を、紫雨が自身の唇で封じる。お前の言葉など今は無用だと言いたげなそれに、香彩は紫雨から逃れようと胸を押す。  儀式は終わったというのに、唇に口付ける行為に動揺しながらも、香彩の胸中はそれどころではないという気持ちの方が大きかった。  紫雨は自分に祓えと言った。  だが『術力』がいつ正常に作動するのか検討も付かない今の状況で、人体に憑いていると分かっている病鬼を放置するなど、考えられないことだった。  普段の紫雨ならば大丈夫だったかもしれない。  だが今の紫雨は四神を香彩に託し、竜紅人(りゅこうと)の神気によって何とか保っているものの、術力を著しく喪失した状態だ。  自分で病鬼を祓えないほどに。 「……っ」  何度も胸を押して抵抗をする香彩にまるで対抗でもするように、紫雨は依然として触れ合わせていた唇を舐めた。下唇を軽く食みながら吸い上げて、動こうとする香彩の後頭部を片手で抑える。  その手の熱い体温に誘われるかのように、香彩は薄く唇を開いた。  手よりも熱い舌が、奥へと逃げ込んだ香彩の舌を強引に絡め取る。 「んんっ……!」  香彩の鼻に掛かったような、悩ましげな響きのある声が、人気のない楼外に甘く響く。  送られてくる唾液を、こくりと喉を鳴らして飲み込めば、臓腑が、かっと熱くなった。  それは紫雨の中にあった、神気と術力を混ぜ合わせた『力の塊』のようなものだった。  発動の度に消えて失くなる術力の、誘発剤になればとでも思ったのだろうか。 (──こんなの、だめだ……!)  いまその『力』が必要なのは紫雨自身だ。  ただでさえ『力』を自分に明け渡し、妖気に対する抵抗力も失くなっている上に、内に病鬼まで飼っている。  そんな状態だというのに、紫雨は惜しみ無く香彩に分け与える。 「……ふっ……ん」  堪らなくなって香彩は、身体を細かく震えさせながら、あえかな朱を刷いた目元をゆっくりと動かして目を開けた。  潤んだ深翠が、薄っすらと滴るような色を孕んでいる。小さく洩れる声と共に、羽ばたきにも似た緩慢な瞬きが壮絶な艶を滲ませた。  そんな目じりから、つぅと流れる一筋の涙を、紫雨は追い掛けるようにして舐め取り、その涙を吸う。 「……お前が、俺を祓うんだ。香彩」   唇から離れた紫雨が、あまりにも切なく笑むものだから、香彩は何も言えなくなった。  香彩は息を呑む。  今度こそ振り返る様子もなく、紫雨が立ち去る。  掛ける言葉すら失って、香彩はただ、その後ろ姿を見つめることしか出来なかった。      

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