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第221話 更なる穢れ 其の二

 日はすっかりと沈んでいた。  白虎門からの楼外は、本通りでもある朱門と比べて、人通りも少なければ店も少なく、長期休暇の時に使われる大きな屋敷ばかりが並んでいるような、そんな所だった。  香彩(かさい)はなるべく人の多い、燈籠の明かりのある場所を選んで歩きながら南へと下るが、使われていない屋敷の辺りは、やはり人気も少なく、明かりも少ない。  早く屋敷にと思いながらも香彩の頭の中には、どこか妙に浮わついた熱のようなものが占めていた。  紫雨(むらさめ)が内に飼う、病鬼のことが気になって頭から離れない。香彩が術力を取り戻すまで、誰にも祓われることはしないと断言した彼が、気に掛かって仕方がない。  国主、(かのと)が病鬼を祓ったという噂と、病鬼に憑かれた紫雨の身体。これが同時期に起こり、尚且つ偶然だと思うほど、香彩の頭は目出度くなど出来てはいなかった。  ──大局の為に個の何かを犠牲し、それを成す可能性もある。貴方には出来ましたら、いらぬ犠牲が出る前に、術力を取り戻して頂きたいのです。  茶屋での咲蘭(さくらん)の言葉を不意に思い出す。  叶の大局の為に個を見ず、個を犠牲にし大局を成す。それは万を助ける為に百を犠牲にするに等しい考え方だ。上に立つ者であれば当然の考え方であり、香彩はそれに反発するつもりはなかった。  ただその『犠牲』に紫雨が選ばれた理由を、香彩は嫌というほど噛み締めただけだ。 (……紫雨は、受け入れたんだ……)  病鬼を。  病鬼を使った、叶を。  どこか悔しくも不甲斐ない気持ちが、香彩の心を占める。それがこの通りを足早に去ろうと思う足を、少しずつ鈍らせていく。  あともう少しで屋敷だというのに、香彩はついに足を止めた。そして中枢楼閣のある方を見遣る。意味のない行動だと分かっていた。だがどうしても中枢楼閣を、彼のいる第六層を見たかった。  だがそれは叶わない。  中枢楼閣の方へ振り向いたはずの身体は。  背後から迫ってきた粗野な手で、口元を覆われながら、屋敷と屋敷の間にある狭くて明かりの届かない路地へ、引き摺り込まれて行ったのだから。  ああ、終わったのだと、渇いた心の隙間でそんなことを思った。  ぽつり、ぽつり、と。  降り出した大粒の雨が、香彩の顔に当たる。  気付けば香彩の身体は、暗がりの狭い路地に放り出される様に横たわっていた。  綺麗な薄紫の髪が、香彩の乱れた衣着を隠し、抱く(いだ)かのように広がっている。  髪紐を解かれたのは随分初めの頃だ。  背後から香彩の首筋に顔を埋め、舌を這わせながら髪を解き、武骨な指が愛でるように何度も何度も梳く。その感触を思い出して香彩は身震いをした。  顔に当たる雨が辛くて、天より顔を背ければ、少し離れたところに放り投げられた紅色の綾紐が目に入る。  何とか腕を伸ばして取ろうとしても、届かない。  雨に打たれた気怠い身体を何とか起こして、香彩は屋敷の外壁に身を預けた。  途端に下腹部より溢れ出すものを感じて、香彩は口元を抑えながら臓腑から逆流してくる物に耐える。  ゆっくりと手を伸ばして、紅紐を握り締めた香彩は、上衣を掻き集めながら上半身の肌を隠すと立ち上がり、足を引き摺るようにして歩き始めた。  屋敷はすぐそこだった。      

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