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第225話 更なる穢れ 其の六

   もう何も感じないのだ。  唯一のものが失われたというのに、驚きも悲しみも感じない。  ただ、そうかと、思うだけ。 (……だけどこれでもう)  何も思わず竜紅人(りゅこうと)のところへ行ける。  彼のところへ行って、発情期の真竜の熱をこの身に受けて。  内にある核に新たな真竜を宿せば、自分の役目はそれで終わりだ。  完全に『力』を失った自分に、祀事など不可能なのだから。  香彩(かさい)は湯から上がると、湯浴衣に使うはずだった白衣を見に付け、湯殿から出た。  心配をした駆け寄って来た式に謝り、脱衣処にある縛魔服と吐瀉物の始末を頼むと、私室へと籠る。  旅の準備が必要だった。  幸いこの屋敷には、成人の儀を終えた香彩を暫く滞在させる為か、色んな物が揃っている。  ここから蒼竜屋敷までは遠い。  何日も懸かる上に、屋敷は山の上だ。  だが近くまで行けば、(りょう)が気付くだろう。何事かと思い、思念体を飛ばしてくれるはずだ。  荷物を纏めて着替えをして、出来れば人気(ひとけ)の少ない早朝の内に屋敷(ここ)を発ちたい。  ふと外に出るのが怖いのだと、心の何かが訴えたが香彩はそれを一笑する。  再び心が不自然に凪いでいくのを、気にも止めずに荷造りをしていた時だった。  式が香彩を呼んだ。 (……何だろう、こんな時に)  小さく息をついて香彩が私室の引き戸を開けた刹那──。  大きな白い鳥が香彩の私室へと入り、卓子(つくえ)の上で羽ばたいて止まった。  白い鳥は軽く鳴くと、その形状を平たい紙のような物へと変容させる。  とても嫌な予感がした。  しかも『力』の失った縛魔師だというのに、その予感は当たるものだから性質が悪い。  香彩が両手でそれを受け取った、まさに瞬く間のこと。  気配を感じる『力』を失った香彩ですら、()えてしまうほどの強い『力』が屋敷を覆う。  薄っすらと匂うのは、妖気の名残か。  香彩は視線を紙のような物へと落とし、そこに書かれていた文字を読む。  ──大司徒(だいしと)屋敷より外出を禁ずる。  ──明後日、皇宮母屋(こうきゅうぼや)、潔斎の間へ出仕せよ。  それは国主(かのと)より香彩に宛てた詔勅(みことのり)だった。  ああ、やられたと香彩は思った。  魔妖の神には、香彩の考えていることなど、全てお見通しだったのだろう。  そしてここでどんなに式に、紫雨(むらさめ)への口封じを頼んだとしても、叶が知っている以上、紫雨に伝わるのも時間の問題だった。 (……僕に何があったのか)  (そして……僕が何を思ったのか)  屋敷の結界を更に覆い尽くす甚大な『力』はまさしく叶のもの。  ここを出て行くなと彼君(かのきみ)は言うのだ。  そして明後日に潔斎の場に来いと。  まさしく明後日は『雨神(うじん)の儀』の吉日だった……。     

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