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第230話 寧 其の三

「……香彩(かさい)様」   (ねい)の声掛けに、果たして自分はいつも通りに振り向くことが出来ただろうか。 (……確かな証拠なんて何もない)  あるとしたら今の不安定で頼りのない自分の、直感だけだ。    平常通りを装いながらも、やはりどこか表情に出ていたのだろうか。寧が何かに気付いたかのように、香彩の腕にそっと触れる。  本当に証拠など何もないのだ。だからその手を払ってしまっては、いらぬ確執を生んでしまうかもしれない。だが、じんわりと正装の縛魔服の上から伝わってくる寧のその熱に、香彩はついにびくりと身体を動かした。 「……心中お察し申し上げます。きっと雨神(あまがみ)様と雪神(ゆきがみ)様も貴方様のお心を感じて、ご加護を授けて下さいましょう。寧は貴方様の武運長久をお祈り致します」  真摯な瞳を向け、膝を折りながら香彩に語り掛ける寧の姿に、香彩の心はますます困惑する。  香彩の微妙な表情の変化を、これから行われる雨神(うじん)の儀への緊張だと、寧は捉えたのだろう。自分への慰めと鼓舞する言葉に、香彩は失われた縛魔師の直感で寧を疑ってしまったことを心の中で詫びた。 「──ありがとう、寧」  そう言って香彩は、寧に対してふんわりと微笑む。  罪悪感の為か、寧の顔をあまり見ることができない。  彼の表情を、その様子を見ることもなく、香彩は『申し子』に、よろしくお願いしますと声を掛け、彼らと共に潔斎の場に向かった。  だから香彩は知らなかった。  寧が香彩の笑みに、息を呑んだ様子を。  やがて苦し気な表情で、香彩の名前を呼んだことも。 「……申し訳ございません。香彩様」  ですが貴方様には何としても『力』を取り戻して貰わねば、困るのです。  寧はそう虚空に呟くように言うと、穢れを封じていたはずの繃帯を、するりと解く。  その手の甲には。  まるで人が引っ掻いたような痕が、くっきりと残っていた……。  

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