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第244話 災悪の魔妖 其の九

   困惑する香彩(かさい)に、病鬼は考える時間を与えない。長く伸ばしていた腕を元の大きさに戻した病鬼は、見せられた『力』の片鱗に敵わないと悟ったのか、赤い大きな口を開けて香彩を威嚇する。  だが紫雨(むらさめ)は、それは面白いものをみたとばかりに、くつくつと嗤うのだ。  ──オマエガ、オレヲコバムノカ。    だが、またそれも一興、と。  彼は嗤いながら『力ある言葉』を発した。  言葉に反応した招影が、一斉に香彩に向かって襲い掛かる。 「……っ!」  香彩は胸元から祀祗(しぎ)の札を取り出した。  指に挟み、もう片方の手で印を結ぶ。  雨神(うじん)の儀に使う予定だった物だ。召喚の媒体品ということもあり、札自体にも強力な『力』が込められている。発動させることが出来れば、向かってくる招影(しょうよう)を一掃できるはずだ。 「……伏して願い奉る」  ほのかに祀祗の札が彩りを見せた。  蒼白く洗練された光は術力の顕れだ。 「……伏して願い奉る。真竜御名(しんりゅうごめい)黄竜(こうりゅう)、蒼竜。その御名において、我の呼応に力を貸したまえ」   香彩を中心にして、清浄な空気と蒼白い光の波動が、周りに広がる。 (どうか……どうかこのまま)  頼むから消えてくれるな。 「陣!」  香彩は祀祗の札を、招影(しょうよう)に向かって投げた。札は術者の意思を持って、真っすぐに突き進む。  ──だが。 (ひか……り、が……)    蒼白い光は、招影(しょうよう)に祀祗の札が届く前に消え失せた。勢いの失った札は、ただの紙へと戻ったのか、ひらりと木床へ落ちる。  目の前に迫る招影(しょうよう)の、心の滅びの手。  それが恰も、心の中で救いを求めている自分自身の手のように思えてくる。 (……ああもしかして)  だから招影(しょうよう)だったのかと、そんなことを思いながらも、胸部を貫かれる恐ろしさに、香彩はぎゅっと目を閉じた。 (……)  だがその衝撃は、いつまでたっても香彩を襲っては来なかった。   それとももう貫かれたのか。  『招影(しょうよう)に胸を貫かれる感覚』というのは、こんなに穏やかで安らぎを齎すものなのか。  それは幼い頃からよく知っている、懐かしい腕と気配にとてもよく似ていた。  このままもう身を委ねて、堕ちてしまっても構わない。そう思ってしまうほどの心地良さ。  まるで傷付いた心を癒すような、森の木々の香り……。 「──っ!」  その香りがする者など、たったひとりしかいないのだ。  香彩は驚いて目を開けた。 「あ……」   前を見据える端正な横顔が、そこにあった。  自分を庇うように肩を抱く、逞しい腕。   「──竜紅人(りゅこうと)……」  いま、一番会いたくて。  そして一番、会いたくなかった人が、顕現していた……。

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