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第247話 夢月狂 其の一

 まさにそれは『降りていく』感覚だった。  闇の拡がる空間の更に奥深くへ、縛魔服の袂を翻しながら、香彩(かさい)はゆっくりと降りていく。  手にとても温かな感触があった。  ぐっと握れば、力強く握り返してくれる、とても温かな手。  森の木々のような香りが自分にも移ってしまったのか、身体中から竜紅人(りゅこうと)の香りがした。  やがて地面にあたる部分に足が着いて降り立っても、周りには深い闇が広がるばかりだった。  気付けば手の温もりが消えていた。どこ……と、その温もりに縋りたくなる気持ちを抑えて落ち着かせる。  息を吸えば、やはり香るのは竜紅人の神気の香りだ。  姿が見えないのは、暗闇の所為だけではない。同じ空間にいるというのに、一枚の見えない壁のような物に遮られているかのような、そんな感覚がする。  だが自身の感覚が告げているのだ。  竜紅人は近くにいるのだと。  そしてここは自身の夢床(ゆめどの)なのだと。  夢床(ゆめどの)は意識の奥に存在する、潜在意識の眠る場所だ。ここは繊細で、自分以外の者が近づくと不快に感じだり、普段気の合う者でも触らせることはない、誰もが持っている『自分』が『自分』であるための矜持の場所だ。  そして自分の経験や傷が眠る場所でもある。  ずっとこの場所に降りることが出来なかった。自分自身が自分を護る為にずっと拒否をしていた。  招影(しょうよう)の、接触すると罪悪感が刺激されて忘却された苦痛の記憶が甦る特性は、まさにいまの香彩にとって、とても都合が良かった。この『記憶』は夢床(ゆめどの)に仕舞われるものだったからだ。  だが危険な賭けであることに違いなかった。魔妖を利用して自我の中でも、一番繊細な場所に降りるということは、失敗すれば自分の心を壊すことに繋がる。 (──それでも)  夢床(ここ)に『力』を失くした理由があることを分かっていて、夢床(ここ)に降りる為の条件が揃ったのなら、たとえそれがどんなものであっても利用するだろうと香彩は思った。  ただ覚悟はしていた。  招影の(しょうよう)力を利用して夢床(ここ)へ降りた以上、香彩の支配権は招影(しょうよう)にある。()たいものが()られるとは限らない。もしくは自身が一番()たくないものを、永遠と繰り返し視せられるかもしれない。 (……それでも……)  何もできないまま、取っ掛かりのないまま、天を仰ぎ嘆いていたあの時よりはいい。  暗闇の中、ふと目の前の一部が照らされて明るくなった先に、寝台が見えた。  寝台には、寝そべるふたつの影が見える。  それはとても見覚えのある寝台だった。  その木床には紅筆で描かれた四つの陣が見える。  まさに成人の儀が行われていた、潔斎の場の光景だった。 「……っ!」  香彩は思わず洩れてしまいそうな声を、口で覆うとした。だがどうした訳か、四肢をまるで縛られているかのように、動かすことが出来なかった。

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