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第256話 夢月狂 其の十

 肌のぶつかる乾いた音と、男の荒い息遣い、そして啜り泣くような嬌声が、人気のない静かな晦冥(かいめい)の狭い路地に響く。  やがて男の息の詰める声と、香彩(かさい)の嬌声にも似た悲鳴が聞こえたと同時に、再び招影(しょうよう)によって目の前の幻影が消え、真っ暗になった。  香彩は自分でも気付かない内に荒く息を吐いていた。しんと静まり返った空間に、心の臓のどくどくとした音だけが聞こえるかのようだった。 (……信じたくない)  そう思う自分がいる。  だがふと思い出したのだ。  蒼竜が陰陽屏に牽制に行った時のことを。  そして、少憩室でのあの出来事のことを。 (あれは……あの牽制は……っ!)  過ぎた牽制だと思っていた。  何故巻き込んだのだと思っていた。 (竜紅人(りゅこうと)……気付いてた……?)  気付いていたのだろうと思う。たとえ蜜月を迎えられない真竜とはいえ、あそこまで竜紅人が分別を失くすなど、通常では有り得ないことだった。  今は香彩のことで一杯になっている竜紅人を、(りょう)が諌める形になっている。だが本来は香彩と療が羽目を外し、竜紅人が諌める、そんな間柄だった。 (──あの時僕は、ちゃんと……)  考えなければいけなかったのだ。  竜紅人の行動の意味を。 (あの時にちゃんと考えて、話が出来ていれば)   喧嘩別れなんてしなかったかもしれない。  どちらにせよ発情期が来て、竜紅人は幽閉されたかもしれないけれど、何も話が出来ないまま別れることなど、なかったかもしれない。 (それでも竜紅人は……!)  自分の為に二度も思念体を飛ばしてくれた。  連れて行けと、言ってくれた。  貴方は何故そんなに優しいのか。 (優しくされる価値なんて……僕にはない)  優しくされることが怖い。あんな喧嘩をして、側にいることも出来ずに、貴方以外の者と契ったというのに。  そんな香彩の心を嘲笑うかのように、招影(しょうよう)の幻影は大司徒(だいしと)屋敷の湯殿を視せる。  そこには湯船に身を沈め、皮膚が赤く腫れ上がるまで身体を洗う香彩の姿があった。だがどんなに洗っても洗っても、まるで膠着(こびりつ)いたかのように、触られた感触が取れない。  ──……落とさなきゃ……!  ──落として……綺麗に……っ!  ──だって……竜紅人に……っ、蒼竜にこんな身体っ……!  あの時の『香彩』の声が聞こえてくる。  どんなに湯で洗っても、男の気配の残滓が竜紅人には分かってしまう。  穢されたのだと知られてしまうことが、恐ろしかった。  そして何よりも恐ろしいのは、心の中の相反する感情を同時に心に抱いている自分だ。  知られたくないのに、蒼竜にこの穢れた身体を差し出し、熱だけを貰おうと考えた自分がいる。 (……なんて浅ましいのだろう)  自分は真竜の蜜月期に共にいることが出来ないというのに、自分の願望だけは叶えようとしているのだ。  知られたくないと怯えた心の奥で。  想い人の願いを、その本能を叶えられられないなど、やはり自分は竜紅人にふさわしくない。それに自分は真竜が蜜月期を向かえているというのに、想い人とは違う男二人に抱かれたのだ。  

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