271 / 409

第271話 偽りなき真実 其の六

 香彩(かさい)、と。  官能的な欲に掠れた低い声が、自分の名前を呼ぶ。 「お前は……生まれて来ない方が幸せだった。生まれて来なければ……よかった。そう思ったことが、何度も……何度も、ある」  ああ、やはり否定されるのか。  そんなことを心の隅に思う。  もうこれ以上、何も考えたくなかった。聞きたくなかった。  だが蒼竜は()いたのだ。  闇を払い、偽りなき真実を視よと、()いたのだ。  香彩を奮い立たせるように、見えない手が香彩の手の甲を優しく撫でる。指と指の間を柔く摺り合わせて絡める。その何とも言えない感覚に、ただひたすら慰められる。やがて力強く自分の手を握るその感覚に、逃げるなと言われている気がした。  香彩は、ぐっと奥歯を噛み締めてから、再びあの時の情交を見つめる。  紫雨(むらさめ)が香彩の頬に触れたまま、ほんの僅かに触れるだけの接吻(くちづけ)を落としていた。  愛しいのだと、いわんばかりのそれ。 「生まれて来なければ、お前は辛い心の傷を負わずに済んだ。『力』に目覚めることもなかった。こうして『力』を護り、引き継ぐ為の儀式の為に、俺と目合わずに済んだ。それでも俺は……っ! お前が生まれてきてくれて、良かったと思っている。これは俺の我が儘だ。勝手だとお前は怒るだろうが、それでも俺は……俺はお前がいてくれて良かったと思っている。お前が生きがいだ。お前が生きていてくれたことが、生きていることが俺の何よりの幸せだ。これからもお前を見ていたい。お前があいつと、どんな人生を歩むのか見ていたい」   それは胸が詰まりそうな程に、張り詰めた声で話す紫雨の独白だった。  ぽたり、と。  何かが香彩の頬に落ち、滑らかに首筋へと流れていく。 「だがお前は……俺の過去に振り回されて、心身の傷を俺に偽り続けてきた。そんなお前の幸せを、考えてやる余裕が、俺にはなかった」  すまない、と。  そう言いながら紫雨は、香彩の身体から熱楔を引き抜いた。無言のまま、熱の溢れ出す花蕾に指を差し入れ、胎内に残るものを丁寧に掻き出すと、元々着ていた儀式用の白衣を香彩の身体に被せる。  そのまま潔斎の場を離れた紫雨が、次に戻って来た時には、湯を張った桶を持っていた。  固く絞った布で、香彩の身体を拭き清めていく紫雨が、酷く穏やかな顔をしている気がして、香彩の心を先程とはまた違った感情が締め付ける。  否定されてなどいなかった。  寧ろ求められていたことを、知ってしまった。  紫雨、と。  名前を口にしてしまえば、心から溢れ出してしまうものがある。その感情のままに、気付けば香彩の頬に一筋の涙が伝った。  それを見えない指が掬い上げる。  やがて慰めるように吸われ、涙の通った跡を優しい接吻(くちづけ)が辿る。 (──竜紅人(りゅこうと)……)   どんなに目を凝らしても、彼の姿は見えない。  ただ闇の中で彼の存在を、温もりとして感じるのみ。  それ程までにこの招影(しょうよう)の闇は深かった。  『力』を光によって削がれていくことを知った招影(しょうよう)が、より濃く鮮明に幻影を視せ続ける。

ともだちにシェアしよう!