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第272話 偽りなき真実 其の七

 厭魘艶嫣(えんえんえんえん)と。  怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)と。  招影(しょうよう)が啼く。  より深い闇へと香彩(かさい)の心を引き摺り堕とし、苗床にせんが為に。  香彩を愛しげに見遣り、身体を清めていた紫雨(むらさめ)の幻影が、何の前触れもなく消えていく。  そして次に現れたのは、とても見覚えのある一室だった。  春には不似合いな、ひどく滄溟に似た蒼々たる宵の空に、冴え冴えと上がった真月の光が、部屋の中に差し込んでいる。  その一筋の光が長い影を落とす中、ひとりの少年が、荒い息遣いに胸を上下させながら座り込んでいた。 (要らない。こんなもの要らない。貴女さえいれば何も要らなかった) (お前さえいなければ、お前が男児でさえなければ) (罪には問われなかった……!)  貴女は死なずに済んだのだ……!  少年は慟哭にも似た声を上げながら、息の通う場所を両手で締め上げる。  確実に込められていく力に、明確な意思などなかった。愛憎のあまりにどうすることも出来なくて、救いを求めて縋り付いているようにも見える。    先程まで火が付いたかのように泣いていた赤子の声が、すんと消えた。気付けば目の前には、ぐったりとした乳飲み子の姿がある。  自分はこの光景を何度、目にしただろう。  我を忘れ、荒く息をつく少年の、鬼のように歪んだ顔を。どこか途方もない闇の底で、迷子になったような昏い翠水の目を。  いつもならここで全てが終わる。  悲しくて苦しくて、どうすることも出来ないまま、灯火が尽きる。  その切ない刹那の(あわい)に。  高らかに吠ゆる蒼竜の、厄を払う啼声が聞こえてきたのだ。  ──忘れるでないよ、蒼竜の咆哮を。お前を守り、導くものえ。恐れず闇を見りゃ。闇を暴き、偽りなき真実を視せる、厄を払う啼声を忘れるでないよ。  不意に雨神(あまがみ)の声が、頭の中を過る。  闇を暴き。  偽りなき真実を視せる。  厄を払う啼声。    月明かりだけが照らす暗がり部屋の中で、少年の持つ気配ががらりと変わった。  憑き物が落ちたかのような、何が起こったのか分からないかのような、茫然とした表情のまま、赤ん坊から手を離した少年は、ただ自分の両手を見つめている。その手は確かに大きく震えていた。  怯えたその翠水が、弾かれたように顔を上げて乳飲み子を映す。 「あ……」   それを目にした時、彼は一体何を思ったのだろう。  もうぴくりとも動きもしないそれを。  閉じることを忘れた口元は、一音の形を残したまま。  やがて彼は。  嗤った。  自らの顔を手で覆い隠し、引き攣るような声を上げながら、大きく嗤った。  その様子はあまりにも異常で奇怪だった。  だが一頻り嗤ったその声も、やがて涙混じりのものに変わり、ついには喉を引き裂かんとばかりの慟哭になる。身を震わせ、悲しみに溢れた喉を振り絞ってひたすら声を上げる。  取り返しのつかないものを嘆き、そして無くしてしまったものをただ求めるかのように。  そんな泣き方をする彼を初めて見た香彩は、ただ茫然とその幻影を見ていることしかできなかった。  その泣き声だけで、分かってしまう。  彼は後悔していたのだと。 (……紫雨……!)  後ろから彼を抱き締めたい衝動に駆られる。  ちゃんとここにいるよと、伝えたくなる。だがこれはあくまで招影が生み出した幻影であり、厄を払う蒼竜の啼声が見せる過去の真実だ。      

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