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第274話 偽りなき真実 其の九

 鬼子のそんな言葉に、紫雨(むらさめ)が一瞬何を言われたのか分からなかったのか、茫然とした表情をする。だがすぐに、ぎっ、と鬼子を睨み付けた。  紫雨の反応に、鬼子がくすりと笑う。  その笑い声を聞いたのか。  不思議なことに乳飲み子の泣き声が、ぴたりと止んだ。  あまりの唐突な様に紫雨は驚き、抱いていた乳飲み子の顔を見る。  その短い腕を、伸ばして。  その小さい手を、広げて。  けたけたと、赤子は彼に向かって笑ったのだ。 「──っ!」     息を詰める紫雨の瞳からは、涙が溢れて頬を伝う。彼の泣く姿をこの夢床(ゆめどの)で幾度見ただろうと香彩(かさい)は思った。  ずっと泣くことなどない人なのだと、心のどこかで思っていた。だがこうして自分の知らないところで、記憶に残らないところで泣いていたのだと思うと、心が締め付けられて痛かった。  だがその痛みも、森の木々の香りと、背中に感じる温かいぬくもりに、自然と癒されていく。 「……香彩」  呼ばれて香彩は、どきりとした。  それは幼い紫雨の声色だった。  夢床に降りて、紫雨が乳飲み子の名前を呼んだのは、初めてではないだろうか。それはまさに紫雨が個を、香彩という存在を意識し、認識した瞬間だった。 「……すまない香彩。疎まれてもいい。何を言うか勝手だと、詰って恨んでくれてもいい。お前が俺をいらないと言う日までどうか……共に……」  共にあってほしい。  涙と吐息混じりの、今にも消えそうな声で、紫雨は乳飲み子に向かってそう語りかける。  紫雨の顔を見て、けたけたと笑っていた赤子は、恐る恐る伸ばされる紫雨の指をぎゅっと掴んだ。紫雨が驚いた顔をみせるが、それが面白かったのか更に笑い出す。  いいよ、わかったよ、と。  まるで返事をするかのように。  たとえ過去の幻影だとしても、香彩は伝えたかった。  今も一緒にいると。その愛情を受けてここまで成長したのだと。色んなことがあったけれども、貴方が見守っていてくれたから、ここまで来れたのだと。  そう思った刹那。  がらんどうだった心の一部に、何かがしっかりと嵌まったようなそんな気配がした。認識した途端に感じるのは、背後から自分を抱き締めている、たくましい腕の感触だった。  振り向いても何も見えない。  だが、香彩と。  招影(しょうよう)の深い闇の毒の中にあって、耳元に吐息混じりの、愛しい人の声が聞こえてくる。  それは毒が薄まりつつある証拠だった。  そして自身を締め付ける罪悪感の核に近付いている証拠でもあった。  だがやはりまだ、竜紅人の(りゅこうと)姿を見ることは叶わない。  

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