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第275話 偽りなき真実 其の十

 厭魘艶嫣(えんえんえんえん)と。  怨瘟陰鴛(おんおんおんおん)と。    招影(しょうよう)の啼く声が一段と強くなる。  これが最後の闇幕の砦だと、招影も分かっているのだろう。  目の前にあった紫雨(むらさめ)と鬼子、そして乳飲み子の幻影が跡形もなく消える。  次に見せられるものを、香彩(かさい)は分かっていた。  初めに見せられた物を辿るのならば、最後はあの場面だ。無意識の内に震える身体を、どうすることも出来ない。今から見せられる幻影は、少しずつ闇を払い、香彩の心を溶かしてきた出来事全てを塗り潰してしまうほど、香彩にとって闇深いものだった。  それこそ全てを放り投げて、蒼竜に熱を貰って、そのまま逃げようと考えた程に。 「……あ……」  竜紅人(りゅこうと)にはもう既に知られている。  香彩に一体何があったのか。  それに対して彼は何も言わなかった。 (──……それが答え、じゃないの……?)  だが初めの闇を裂き、払う啼声の時に彼は確かに言ったのだ。  昼餉も夕餉も、そして朝餉も一緒に食べよう、と。  その言葉に、やがて降りてきた接吻(くちづけ)に、どれほど心が救われたか分からない。  それでもこの何も映さない闇を見つめていると、心の中に広がったはずの優しいものが、少しずつ冒されていくのが分かるのだ。 (ああ……もしかして)   招影はそれを狙っているのかもしれない。  不安が大きくなったところに、あの場面を見せて、心を壊そうとしているのかもしれない。 (だって……)  竜紅人はあの事に一切触れなかった。 (それは一体……)  どういうこと。  見て見ぬ振りをしてしまっていた感情が、心の中に蘇る。それを見計らったかのように、香彩の目の前の闇に、ぽっかりと幻影が現れるのだ。  人ひとりいない、暗がりの路地が。 「あ……」  見知った手に背後から口元を覆われて、灯りの届かない所へ引き摺り込まれていく。その手の感触も、その者が持つ気配も今更ながらに、昔からよく知っているものだった。 (……どうして……っ!)  影招の幻影は再び香彩に、幻影の出来事を今まさに体験しているかのような、そんな錯覚を呼び起こす。  口を覆われるその手の熱さや感触、胸を屋敷の外壁に押し付けられるその痛み、掻き抱かれて髪を解かれ、首筋に感じる男の吐息すら、幻影とは思えない。  ──香彩様。  ──ずっとお慕いしておりました。  ──どうか、どうか一度だけ、この劣情を……! お情けを……っ!  その声にぞくりとしたものが背筋を駆け上がるのと同時に、冷たい汗がつつと、背を伝う。  あの時は恐怖だけだった。  怖くて身体が震えて仕方なくて。  術力を失って徒人(ただびと)同然になってしまった香彩に、抵抗する手段などなかった。ただ男の欲が終わるまで耐えていた。  だが。 (……どうして……?)  袴を引き裂いた手は、かつて自分を導き、紫雨や竜紅人と共に自分を育ててくれた手なのだ。  紫雨の副官だったけれども長い間、自分の隣にいて助けてくれた者なのだ。  それが。 (──慕っていたって……っ! (ねい)……っ!)  寧の熱り勃った剛直が、晒された(いざらい)の双丘に擦り付けられる。先走りだけで濡らされた後蕾に、やヵて穿たれる痛みを思い出して、香彩は震えながら奥歯をぐっと噛み締める。  その刹那。  高らかに吠ゆる蒼竜の、厄を払う啼声が聞こえてきたのだ。

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