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第284話 偽りなき真実 其の十九

 須臾(しゅゆ)にして、香彩(かさい)は見た。  かろうじて残っていた(ねい)の心の白い部分が、じわじわと黒薔薇(こくそうび)の蔓によって真っ黒に染まり、縛られてしまうところを。 「……寧……っ!」  名前を呼んでも無駄だと分かっていた。これはもう終わったこと。過去の真実の幻影だ。それでも香彩は名前を呼ばずにはいられなかった。  荒く息を吐き、ぎらつくその目は明らかに獣欲に染まっている。普段の穏やかな彼と全く正反対なその様子に、香彩は戸惑いながらも信じられない思いがした。  寧が香彩の後を追って、白虎門の監査を受けて門を潜り抜ける。第三者のいる場では、彼は至って普通に見えた。  だが香彩が白虎門から楼外の、人気も少なく明かりも少ない場所に差し掛かった時、その表情は再び一変する。  人が抑えきれない春情を催した時、そしてその絶好の機会が訪れたのだと悟った刹那、こんなにも脆く理性が崩れてしまうものなのかと香彩は思った。  だが覚えのある感情だった。  何故なら自分も寧と同じことをしている。  あの時の衝動を何と答えていいのか分からない。  背後から迫ってきた粗野な手が、香彩の口元を覆いながら、屋敷と屋敷の間にある狭くて明かりの届かない路地へと、香彩を引き摺り込んでいく。  やがて暗がりの路地が、その幻影が見えなくなる中、肉の打つ音と香彩の嬌声にも似た悲鳴が、尾を引くかのように聞こえて消えたのは、招影(しょうよう)の最後の抵抗か。    ──まだ足りない、のですか。      再び暗闇に包まれた『真実を視せる幻影の世界』に響くのは、感情の削ぎ落とした寧の低い声。  まだ足りないのだと紙蝶を媒体に、彼君が寧に伝える。『伝える』という甘いものではなく、まさに勅命だったのだろう。  香彩を暗がりの路地で犯した後、這々の体で自室に戻った寧に待っていたものが、まさにそれだった。  ──『雨神(うじん)の儀』当日に、招影(しょうよう)を召喚せよ。 『紫雨(むらさめ)が内に持つ病鬼を媒体に招影(しょうよう)()びます。だが彼の残された術力では心許ない。それに彼はどうも香彩に対して非情に成り切れない。だから手伝って頂きたいのですよ。確実に()べるように。貴方なら()べるでしょう? ここからでも分かりますよ。その恨みの込められた手の甲の傷は、見事な媒体となる』  頼みましたよ、と。  (かのと)の抑揚のない声が暗闇の中から聞こえてくる。

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