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第285話 偽りなき真実 其の二十

 ああ、と香彩(かさい)は心の中で呻いたその瞬く間に、闇を映していた幻影は形を変えた。  目の前に潔斎の場に隣接する禊場(みそぎば)が現れる。 「……心中お察し申し上げます。きっと雨神(あまがみ)様と雪神(ゆきがみ)様も貴方様のお心を感じて、ご加護を授けて下さいましょう。(ねい)は貴方様の武運長久をお祈り致します」  そう言って真摯な瞳を向け、膝を折りながら香彩に語り掛ける寧の姿があった。 (……これは……)  確かほんの先程のことだ。  『雨神(うじん)の儀』の禊を行った後。  支度の為に寧に触れられた瞬間、その熱を知っている気がした。だが寧の自分を慰め、鼓舞するその姿に、失われた縛魔師の直感で、寧を疑ってしまったことを心の中で詫びた。 (──直感は当たっていた)   だが幻影の中の香彩は寧に礼を言い、ふんわりと微笑むと振り返ることもなく、『申し子』と共に禊場を出て行く。  だから知らなかった。 「──香彩、さまっ……!」  その笑みに息を呑み、苦しげに自分の名前を呼ぶ、寧の姿など、知る由もなかった。 「……申し訳ございません、香彩さま……っ! ですが貴方様には、何としても『力』を取り戻して貰わねば」  貴方様が『力』を失うなど、あってはならぬこと。  並び立つ者のない類い稀な『力』を、再び呼び起こすことが出来るのならば、私は何でも致しましょう。  寧は、穢れを封じていた手の甲の繃帯(ほうたい)を、するりと解く。  現れたのは人が引っ掻いたような傷だった。 (……あれは、僕が……)   引っ掻いたものだ。    何の準備もなく後蕾を穿ち、欲望のままに腰を振る彼に対しての最後の抵抗だった。  手の甲には四本の紅い筋が見える。  だがどうだろう。  あれから数日経っているというのに、その傷は妙に生々しく、まるでほんの先程怪我を負ったようにも見える。  まさにそれは恨みの傷、『恨傷(こんしょう)』だった。  無意識の内に込められた恨みの念が、身体の治癒力を遮断する。そして時折思い出したかのように、再び傷を付ける。恨傷は念を払わない限り深く残り、治ることはない。  寧が苦痛の呻き声を上げた。  念はその恨みを思い出したかのように、手の甲の傷を再び抉る。そうして皮膚から溢れ出した鮮血は、縛魔師の血であり、彼君の妖力を纏った恨みの血だ。  まさに魔妖にとって、これ以上ない馳走だろう。  ぽたり、と。  禊場の床に、寧の血液が落ちる。  一滴、また一滴と。  床のその一点は、どす黒く染まり穢れが満ちる。  やがて()ばれた声に従って、血溜まりの中から現れるのは、二の腕部分がやけに長い、幾つもの黒い手……招影(しょうよう)だ。  招影(しょうよう)はすぐに寧の中にある、彼君の妖力に気が付いたのだろう。決して寧を襲おうとはせず、寧ろ愛でるように、くるりと彼の身体に二の腕の長い部分を巻き付ける。  一頻り寧の中にある妖力と、術者の血を堪能してから、招影(しょうよう)は潔斎の場へ動き出した。そうして本来紫雨(むらさめ)()んだものと合流し、門をこじ開けたのだ。

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