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第289話 靉靆たる 其の三

 竜の聲を発してから、香彩(かさい)の表情が変わった。  どこか憂いさを伴いながら、それでも生き生きとしていた表情が、すっと何者かに入れ替わるかのように無表情になる。  翠水はその輝きを失い、何も映していないかのような、虚空を見ているかのような、そんな瞳になる。  それはどこか縛魔師の操る式にも似ていた。  実際は式のようなものだったのかもしれない。この香彩の夢床(ゆめどの)に降りてから自分と共にいた香彩を、竜紅人(りゅこうと)はずっと『香彩そのもの』だと思っていた。だが雨神(あまがみ)に『香彩』を探せと言われた時に、ようやく気付いたのだ。これは『香彩』であって『香彩』でないのだと。  ようやく本性を竜紅人に現すことが出来たのは、決して竜の聲の効果だけではない。竜の聲は確かに自分の御手付きを従わせることが出来るが、いざとなれば香彩にはそれを跳ね除ける『力』がある。  香彩の中の罪悪感という闇のほとんどが洗われたこと。何よりも香彩自身が己に違和感を感じ、望まなければ竜紅人の聲に従うことはなかっただろう。  香彩、と。  今一度、竜の聲で愛し子の名前を呼ぶ。  その表情を一切変えることのないまま、香彩はある方向を指差した。  竜の聲に服従を示せば、決して違えることはない。この指の先の白い世界に、香彩の本質があるのだろう。 「よく教えてくれた。ありがとうな、香彩」  竜紅人はそう声を掛けると、教えられた方向に歩き出そうとした。  だが……。 「──っ!」  つん、と。  衣着の袖を引っ張られる。  最後の抵抗とばかりに、香彩が竜紅人の袖をぎゅっと掴んでいた。  驚いて思わず竜紅人が香彩を見れば、輝きの失った虚空の翠水からは、一筋の涙が伝うではないか。 「……かさい」  粗野にも竜紅人は親指の腹で香彩の涙を拭った。そして堪らず、白くて柔らかい頬に触れる。 「お前が何に怖がっているのか、何となくだが分かっているつもりだ。……心配するな。言ったろう? お前に何があっても俺は……お前を逃がさない。逃げても全力で追い掛けて、この腕に閉じ込める。だから……──俺を連れて行け、と」  だから大丈夫だ、かさい。  竜紅人がそう囁けば、安心したのだろうか。香彩は衣着の袖を離すと、頬に触れている竜紅人の手の甲に、自分の手を重ねた。そうして目を閉じて、竜紅人の手の平の感触を確かめるかのように、頬を擦り寄せる。  もう片方の手で香彩の頭をそっと撫でた刹那、香彩の姿はこの白い世界に溶け込むかのように、跡形もなく消え去った。  役目を終えた『香彩』は本質に戻ったのだろう。 「……ったく、いくつになっても世話が焼けるなぁ……お前は」   誰もいなくなった白い世界の中で竜紅人はそう呟いたあと、徐に歩き出した。  香彩が指し示した先を、ただ真っ白な世界の中を。  

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