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第290話 蜘蛛と獲物 其の一

 そうしてどれだけ歩いたのだろう。  たくさん歩いたのかもしれないし、実はほんの少しだったのかもしれない。そんな感覚のおかしくなりそうな白い空間を、ひたすらひとりで歩いて。  ようやく見つけたその姿に、竜紅人(りゅこうと)は軽く息を詰める。  有り体に言えばそれは、蜘蛛と蜘蛛に捕らえられた獲物だった。  蜘蛛に似たもの、と言えばいいだろうか。体型も顔もまさに香彩(かさい)そのものだが、手足だけが異常に長い。そんな手足を何本も器用に使って、気を失っている獲物の手と足を背後から大の字に拘束している。  この蜘蛛に似た『香彩』こそ、香彩が心の奥底に持つ一番の罪悪感が顕現したものだ。  そしてその獲物こそが、『本質の香彩』に違いなかった。  竜紅人が二人に近付けば近付くほど、自分の御手付(みてつ)きの見当違いな強い想いが伝わってくる。竜紅人はどうしてもそれを、香彩の口から言わせたいと思った。むしろ香彩の口から自分に対して、話をしてほしいと思った。  そんな想いの一部と、竜紅人の気配を悟られたのだろう。『香彩』が竜紅人に対して近付くなと威嚇する。だがどんなに近くに寄っても、その滑らかな柔い頬に触れてみても、『香彩』は脅嚇はすれども殺気を竜紅人に対して飛ばすことはなかった。  この『香彩』も気付いているのだ。  積もり積もって、一番となってしまった罪悪感そのものから自分を救ってくれるのは、目の前にいる竜紅人だけなのだと。 「……悪いようにはしない。だからそんなに威嚇するなよ」   淋しいだろうが。  唇に吐息が掛かるそんな距離で、竜紅人がそう囁いた。  香彩が自分に反抗的な態度を取ることなんて、いくらでもある。  特に幼い頃など、こちらの言うことなど聞いた試しなどなかった。本人が聞けば煩いほどの反論が返ってくるだろうが、良い返事をした後に言われたことをしない、もしくは真逆のことをするなど日常茶飯事だった。 (それでも……)  今のように敵意を向けられることはなかった。罪悪感の発端が自分なのだと自覚していても、今までずっと懐かれていた分、ひどく淋しい。 「……かさい……」  熱い吐息混じりの声を『香彩』の唇にわざとぶつけてから、竜紅人は縋るように触れるだけの接吻(くちづけ)を落とした。

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