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第293話 蜘蛛と獲物 其の四

 それはひどく甘美な誘惑にも思えた。  心の隙間に冷やりとした風が吹き込み、それが心の奥底の一番見てはいけない部分に、冷たくじっくりと溜まっていくかのようなそんな感覚に、竜紅人(りゅこうと)はくつくつと嗤った。 (──だがそれはひどく後悔する)   確かに繋がれた香彩(かさい)は逃げられずに、ずっと自分の側にいるだろう。  だがそれで香彩が何を思うのか、考えるだけで眩暈がしそうだと竜紅人は思った。  嫌われたくないのだ。  ずっとずっと渇望し、焦がれながらも自我を殺していたというのに、想い人がずっと自分のことが好きだったのだと、求めてくれたのだから。 (だから駄目だ)   逃がすものかと訴えて安心させて。  香彩を縛る御手付(みてつ)きという名の長い長い鎖を付けたまま、逃がさなくてはならない。  いずれ香彩の心が落ち着いて、香彩自身が再び自分を求めてくるまでは。  そんな未来を想像し、竜紅人は再び獲物を見つめながら、くつりと笑った。 (……安心させて、逃がして──……追い詰める……!)  それはまさに真竜の狩猟本能を刺激するのだ。  ねっとりと舌で耳孔を責めれば、『香彩』の艶めいた色声が上がる。つつと、舌を首筋に滑らせて強く吸い牙を立てれば、その声はより一層、淫らになった。 「──っ!」  獲物もまた同一の存在である為か、同じ快楽を感じているのだろう。思わず耐え切れなかったと言わんばかりの声が上がる。  吸った肌に浮き上がるのは、唇痕だ。  陶器のような白く滑らかな肌に残る紅はあまりにも淫靡であり、自分の痕を残すこの行為を大層気に入っていた。そして香彩もまた、自分に愛撫の証を肌に落とされるのが、堪らなく好きなのだと竜紅人は思っていた。  寂しいから強く痕を残して欲しいと言われたことを、昨日の事のように覚えているのだ。  竜紅人は楽しそうにくつりと笑うと、ようやく獲物の頬に触れた。 「……教えて、くれる気になったか……?」  わざと色を含ませた声に、香彩の翠水が大きく揺れる。奥歯を噛み締め、ぐっと口を閉じているその姿は、決して悦楽だけを堪えているわけではないのだと見て取れた。

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