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第312話 顕現 其の一
指先でそっと自分の唇に触れる。
あの温もりが先程まで確かにあったのだと、思いたかったのかもしれない。
しばらくの間、白い世界に仰向けに寝ていた香彩 は、おもむろに起き上がると、衣着を整えた。
腰の鈍い痛みはすっかり消えていたが、衣着の合わせ目辺りに付けられた唇痕が、衣着に触れてちくりと痛む。
香彩はその痛みごと抱き締めるかのように、衣着の合わせ目の上に手を置いた。
白い世界に独りきりとなっても、この痛みがある。竜紅人 の存在を感じられることが、何よりの心の支えとなる。
香彩は一歩、また一歩と歩き出した。
目的があるわけではない。
ただ自分の気になる方向へと歩いていく。
ふと何かを感じて足元を見れば、いつの間に顕現していたのか分からない、小さな銀狐と目が合った。
銀狐はようやく気付いてくれたのかと言わんばかりに、くゎいくゎいと鳴く。
「もしかして、ずっとそばにいてくれたの?」
香彩の言葉に銀狐はそうだと鳴き、尻尾を一振りすると香彩の腕の中に飛び乗った。
「そうだったんだ。気付いてあげられなくてごめんね、銀狐」
銀狐のふわふわとした頭を香彩が優しく撫でると、銀狐は甘えるように香彩の胸に頭を擦り付ける。
香彩は銀狐を腕に抱いたまま、再び歩き出した。
この方角なのだという根拠など何もない。ただこの方向に何かがあるのだという、縛魔師の直感だけだ。香彩の式に下ったとはいえ、夢床 の道案内人だった小さな狐は、香彩の腕に大人しくおさまったまま、香彩の歩く方向をただ見つめている。それがまるで答えは自分自身が知っているでしょうと言わんばかりで、香彩は少しほっとする。
変化は突如、訪れた。
「あ……」
それはどうして今まで気が付かなかったのかと、思わず自分を責めたくなるくらいに、とても近い場所にあった。
まるで月のような、冴え冴えとした洗練された青白い煌りを放つ大きな光の玉が、そこにはあったのだ。
(これが、僕の……)
術力と呼ばれる『力』の源だ。
無くしたのだと思っていたものが、こんなに近くで光り輝いている。しかも大きな光の玉の周りを、四つの小さな光玉が、守るようにくるくると回っているのだ。
香彩は胸が締め付けられる思いがした。
あの四つの光玉からは、紫雨 から受け継いだ四神の気配がした。彼らは香彩の内に存在し、香彩が彼らの気配を感じられなくなってからも、今のように香彩の『力』を守っていたのだろう。
そして。
そっと寄り添うように。
『力』の源のすぐ側には、一回りほど小さな蒼色をした光の玉が三つあった。
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