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第316話 魔妖の身 其の一

 潔斎の場を、まるで水面の波紋の様に広がっていた黒燿の穢れが、瞬く間に霧散する。心地良いものが弾け飛び、この場を支配するのは、洗練された青白い光だ。  (かのと)は自分の意識のしない内に、拳を強く握り締めていた。そんな自分に気付いたのは、労るように手の甲に重ねてくれる、柔くも優しい手があったが為。  爪でも食い込んでいたのか、手の内からぽたりと落ちるのは紫闇色の血液だ。  木床に落ちた血液は、しゅうと音を立てる。本来ならばここから、妖気に満ちた穢れが広がっていくはずだった。だが清々しいまでに洗われた浄化の光が、叶の血の穢れを掻き消していく。   「……苦しいのでは、ないですか……?」    目の前に片膝を付いて座る咲蘭(さくらん)が、気遣わしげに叶にそう聞いた。  苦しくないといえば嘘になる。  叶にとって術力の波動は、諸刃の剣だ。  とてもつない栄養源になることもあれば、過ぎれば今のように身を突き刺す刃にもなる。  胸がとても痛かった。  呼吸をする度に肺を冒していく清い空気が、ひどく忌々しいものに思えてくる。  だが。   「大丈夫、ですよ。咲蘭」    叶はそう言うと顔色一つ変えずに、咲蘭に向かって笑って見せた。咲蘭の息を呑む気配がしたが、叶は敢えてそれを見なかったことにする。  所詮は魔妖の身だ。  こんな清浄な空気の中でひとり、痛みに顔を歪め、苦悶に満ちた声を上げたなら最後、この場にいる司官の不安を煽ってしまうだろう。  我らの崇め奉る王が、魔妖の王なのだと分かっていても。  咲蘭が小さく息をついて、手を離す。  その優しい温もりが遠ざかっていくことが、今はひどく淋しい。   「作り笑いは、あの子でもう充分ですよ。叶」    柔い咲蘭の手の行き着く先は、叶の頬だった。  無理に笑うなと言わんばかりに、するりと撫でられて、今度は叶が息を呑む。  ああやはり、貴方には全てお見通しだったか。  そんなことを思いながら、叶は咲蘭の黒曜石のような瞳を見つめる。   「あの子の一番辛い時に、一番辛い圧力を掛けさせた貴方の遣り方に少々怒りを覚えましたが……貴方は我々よりも二歩も三歩も先を読んでいる。どこを突付けば誰がどのように動くのか、貴方は知り尽くしている。情を考えなければ確かに最善の策でしょう」    咲蘭の言葉に叶は、少し困ったようなそんな表情を浮かべた。潔斎の場は浄化されつつあったが、招影に貫かれた者達は、まだ誰一人も眠りから覚めていない。だからこそ叶は思った感情そのままに、表情に出すことが出来た。  今だけは、彼の前だけは『王の仮面』を外すことが出来る。

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