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第318話 魔妖の身 其の三

 (かのと)は衣着の合わせ目に手を置いて、ゆっくりと呼吸をする。吸い込む空気はまるで毒のようで、息が苦しく胸が痛い。だがこれももうしばらくすれば、苛烈とも云える術力の光が落ち着いてくるに従って、今よりは楽になるのだろう。そうすれば人知れず、薄い防護の膜を張ることが出来る。胸の痛みも和らぐはずだ。  香彩(かさい)の内から生じている劇甚とも云える術力は、決して紫雨(むらさめ)からの『底上げ』だけではなかった。その身の内に感じる三つの天の気配もまた、彼の『力』の巡りを助けている。  あれは真竜の元となる核だ。  叶の横で、香彩の方を振り返っていた咲蘭(さくらん)の、息を呑むような気配が伝わってくる。香彩の内に在るものに気付いたのだろう。  きっとそれは咲蘭だけではないはずだ。  少しずつだが気を失っていた者達が目覚め始める。気配を読むのに敏い者が見れば、一目瞭然だ。  香彩がその身の内に纏う、三つの神気の正体など。   「──あれには『名目』が必要だな。褒美(・・)()か、どちらが良いと思う? 咲蘭」    まるで冷水にでも触れたかのように、咲蘭が叶に向かって敏速に振り返る。その表情は驚きに満ちつつも、どこか信じられないものを見た顔をしていた。いつもならば冷たい印象を与えるような、つんと澄ました表情をしている彼が、何とも珍しいと叶は心内で思う。  にぃ、と叶は笑った。  咲蘭ならば言外に滲ませたものを理解してくれると信じて。  彼の黒曜の目が、じっと叶の紫闇の目を見つめている。    視線を絡ませ。  探るように。  その心の奥までを見通したいのだと、希うかのように。  やがて咲蘭は呆れの様であり、諦めの様でもあり、そして感嘆でもあるかのような、大きなため息をついた。  そうして周りに配慮したのか、叶にだけ聞こえる声量で、囁くように言うのだ。    罰を、と。   「人が悪いですよ、叶。あの子がこの状況で褒美(・・)と言って、素直に受け取るとでも?」 「罰の方が『名目』を受け入れてくれると?」 「負い目を感じながらも貴方の勅命で参じ、貴方が糸を引いているとはいえ、この状況を作り出したのは自分だと思っている子に、褒美だと言っても嫌味にしか聞こえませんよ、叶」 「だが、罰にしてしまうと、洩れなく参戦してくる者がいるだろう?」 「参戦させたらいいでしょう? どうせあの人も一枚噛んでいるのでは? そして貴方も罰として、しばらくは政務室に大人しく引き篭もって、仕事を為さればいかかです?」  「……手痛いな、咲蘭。お前も共に引き籠ってくれるのなら、考えることにしよう」  「ええ、いいですよ。未採決の書簡をこれでもかとお持ちしますので」    眠らせませんよ、と。   そう言ってにっこりと微笑む咲蘭に、叶は余計なものを突付いてしまったとばかりに、心底げんなりとした表情を見せた。いま痛む胸とは別の心痛に、しばらくは悩まされそうだと大きく息をつく。  叶のそんな顔を見た咲蘭が、くすりと笑うと、再び叶の頬に触れた。  慈しむように愛でるように触れられた優しい手が、頤を伝い、首筋を伝い、衣着の合わせ目に置かれた手の甲に覆い被さる。   「下知は私の方がよろしいか?」    咲蘭の毅い黒曜の瞳が、叶の紫闇の目を射貫くように見た。   確信を持った、有無を言わせない言の葉に、叶は心内で愛しげに彼のことを思う。  自分のことを理解し、この内にするりと入ってくる彼の存在は、叶にとって愛しくも貴重だ。   「そうだな。私が言うよりはあれの心の震蕩は少ないだろう。参戦してくる御仁も、お前には弱い。任せる、咲蘭」 「貴方の勅命に奉じましょう、叶」    名残惜しそうに咲蘭が叶の手の甲を、そっと手に取る。  やがてその手に接吻が落とされた刹那、彼の黒曜の視線は叶から外れ、真っすぐに光の嗣子たる少年に向けられていた。  

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