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第320話 嗣子と罰 其のニ

 潔斎の場にいる者達は、どうやら怪我もなく、また招影(しょうよう)の毒によって心を失った者もいないようだった。  辺りを見回した香彩(かさい)が安堵した反面、聞こえてくる司官の声に、だんだんと居たたまれない気持ちになる。  隠していても、いずれ知られることだ。  そう遠くない未来に自分は、三体の幼竜を連れ歩くことになるだろうから。     ──俺に……まされにおいで……香彩。    不意に脳裏を過る竜紅人(りゅこうと)の、何ともいえない艶めいた低い声を思い出してしまって、香彩は更に居たたまれなくなる。  くすくす、くすくすと。  そんな香彩を面白がるような笑い声が、天から聞こえてきて、香彩は思わず息を詰めた。  香彩がいま立っている場所は、木床に紅筆で描かれた雨神(あまがみ)の紋様の中だ。その紋様が淡く光を放ったかと思うと、くるりと円を描きながら浮かび上がる。  それはまさに召喚が成された合図だった。  荘厳とも言うべき神気が潔斎の場に舞い降りる。  白衣を身に纏い、白銀の長い髪を神気の奔流に遊ばせながら、重さを感じさせない動作で地に足を付けるのは水竜、雨神だった。  その厳威たる姿に、周りにいる者が彼に対して叩頭する中、香彩は茫然と雨神を見上げる。   「ほんに、お前は見ていて飽きないえ」    雨神は香彩の頭に触れると、慈しむように軽く(はた)いてから、香彩と視線を合わせる。水竜の名前をどこか陶然とした様子で呼んだ香彩が、やがて我に返ったかのようにはっとして叩頭しようとした。それを無言のまま雨神に手で制されて、香彩は戸惑う。  本来ならば段取りを踏んだ上で召喚される存在だ。  だが祭祀の為の『力ある言葉(ことのは)』でもある祝詞(しゅくし)を上げるどころか、媒体となる祀祗(しぎ)札も発動していない状態で、彼はこの潔斎の場に下ったのだ。  それどころか彼には夢床(ゆめどの)で、常世を照らす真実の道しるべとなる啼声の『力』を借りて助けて貰ったのだ。彼の『力』がなければ、自分達はもしかしたらずっと、招影(しょうよう)が作る幻影の中から抜け出せなかったかもしれない。    香彩は今一度、雨神の名前を呼んだ。  礼を言わなければ。  『力』を借りた代償を払わなくては。    そう思いながら言葉を発そうとする香彩を再び制するかのように、香彩の口元に雨神の人差し指が置かれる。  皆まで言うな、とばかりに。   「ほんに何を仕出かすのか見ていて飽きないえ。昨年は紫雨(むらさめ)から『力』を借り受けて吾を召喚した少年が、今年は我々の同胞を孕むというのだからえ。竜核をその身に宿す同胞の御手付きならば、お前もまた同胞え」

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