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第327話 嗣子と罰 其の九

 ふと(ねい)の手の甲の傷が目に入った。  夢床(ゆめどの)で見たのは数日は経つというのに、先程負ってしまったかのような、生々しい四本の引っ掻き傷だった。それは『恨傷(こんしょう)』といい、寧が香彩(かさい)に無体を働いた時に深く引っ掻いたものだ。『恨傷』は無意識の内に込められた恨みの念が身体の治癒力を遮断し、再び傷付ける。念を払うか、もしくは『恨みを解消』させない限り深く残り、治ることはないとされている。  その傷が夢床で見た時よりも、薄くなっていた。  まだ完全には治っていないその『恨傷』は、まさに香彩の心そのものだ。  寧の身に起こったことを考えると、どうしても恨み切れないのだ。そして(かのと)が寧にしたことを考えると、腹立たしい気持ちが湧いてくる。だが明らかに格上であり、天の存在でもある叶にはどうしても敵わない。神は気まぐれで人を助けもすれば、陥れることもする。目的の為ならばその時に感じた人の気持ちや情など、通過点に過ぎない。   「寧……」    香彩は再び呼び掛ける。  邪に向いていた気配が、だんだんと正常に戻っていくにつれて、寧の顔色に赤みが差していく。  ふるりと長い睫毛が揺れるのを、香彩は見逃さなかった。  ゆっくりと開かれる双眸が、暫しの間さ迷った後、香彩の翠水を捉える。   「──っ……さい、さま……」    寧の掠れた声色の中に驚きのそれを感じて、香彩は彼を安心させるかのように淡く微笑みながら、無言で頷いた。   「──……彩様、……しわけございませ……」 「今は何も話さないで。休んで、寧」    そう言って香彩は、寧に注ぐ『力』を少し強める。  程なくして寧の中にあった邪気が香彩の術によって浄化された頃、寧は再び眠るようにして気を失った。  自身の血液を媒体に大物の魔妖を召喚し、自身も食われかけたのだ。そして邪に染まっていた身体を、一気に正常へと引き戻した反動もあったのだろう。  寧にはしばらくの間、静養が必要だ。   「──香彩」    呼ばれたその官能的な低い声に、香彩は無意識の内に身体がびくりと反応して震える。  来るのは分かっていたはずだ。  何せ先程の自分は何も言わずに、彼の腕から飛び出したようなものだったのだから。  立ち上がった香彩は意を決したように振り返り、無言のまま自分と同じ紫雨(むらさめ)の翠水を見た。  禊場は気付けば慌ただしく、騒然とした空気に包まれている。彼と共に香彩を追い掛けてきた咲蘭(さくらん)が、寧と香彩の様子を見て、すぐ近くにいる縛魔師に典薬処(てんやくどころ)の者を呼びに行かせた。  典薬処は中枢楼閣お抱えの医生や薬師達のいる役処だ。  こういった祀事には万が一の有事を考えて、医生がこの皇宮母屋の外に待機していることが多い。  招影(しょうよう)騒ぎがあった中、医生達は豪胆にも近くに待機していたのか、すぐに禊場に現れた。  何人かの医生が寧の様子を診て、指示を出す。  やがて現れたのは、布を巻いた戸板を担ぐ者達だ。  寧が戸板に乗せられて運ばれていく。医生は数人の縛魔師に付き添うように言っているようだった。  そして咲蘭もまた紫雨に軽く何か話した後、医生の後を追って去っていく。  やがて禊場は紫雨と香彩の二人だけになった。  あれだけ周りが騒がしかったというのに、紫雨の強い視線に捕らわれていた香彩には、どこか遠い所の出来事のように思えてくる。  香彩、と紫雨が再び名前を呼んだ。 「色々とお前に聞きたいことはあるが……咲蘭に呼ばれたのでな、俺も典薬処に行く。後で式を遣るからそれまでの間、結界を張って私室で待機だ。楼外払の支度をしておいで」  有無を言わせない紫雨の口調に香彩は小さな声で、是、と応えを返したのだ。  

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