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第330話 嗣子と罰 其の十二

「──っ!」    香彩(かさい)は驚きで息を詰めながら、びくりと身体を震わせた。身体をすっぽりと包み込む紫雨(むらさめ)の腕は、優しい力加減でとても温かい。本来ならばとても安心出来る腕の中と体温だというのに、香彩は心が騷めいて仕方なかった。  ただ緊張のままに身体を強張らせる。  この腕が、この背中に感じる逞しい身体が、自分をどのように扱い、翻弄させたのか。叩き込まれたと言っても過言ではなかった。  一夜。  必要不可欠だった、たった一夜が自分の中の『紫雨』という存在を、作り変えてしまったかのようだった。    彼が怖いわけではない。  怖いのは自分自身だ。    もしも紫雨が本気で自分を求めたのならば、どうしても抗うことの出来ない自分自身が、心の何処かにいることに気付く。  心の何処かが駄目だと嫌だと叫ぶのに、また別の心の何処かが、自分という存在を求めてくれる彼に歓喜してしまう。  だがそれは竜紅人(りゅこうと)に向ける感情とは、また違っていた。   (……確かに違うんだ)    ずっと立ち位置が違うだけだと思っていた。  紫雨のことは好きだ。  けれども好きの種類が違う。  心が苦しくて焦がれるほどに、その存在を求めてしまうのは。愛しいという感情が溢れるほど、傍にいたいのだと思えてしまうのは、竜紅人だけだった。  それを夢床(ゆめどの)で思い知った。  蒼竜が春を司る真竜の『力』を借りて視せた、真実の夢幻の中で思い知ったのだ。  香彩(かさい)は本来ならば紫雨以外に知る由もなかった、成人の儀の後のあの出来事を思い出す。  これが最後なのだと言わんばかりに、気を失った香彩を荒々しく抱く紫雨の姿を。  だがあの時、紫雨は確かに言った。    ──今だけだ。許せ……竜紅人、と。    彼は約束を違える人ではないと香彩は思っている。  竜紅人のいない場所でも、竜紅人に向かって放った言の葉は、まさに天に向かって契られた言霊も同然だ。  言葉には『力』が宿っている。  その『力』を、言の葉の契りを、紫雨が知らないはずがない。   「……むらさめ……?」    心の中の戸惑いと葛藤が、香彩の声を細くさせる。  だが。   (──え……)    自分の心内の感情に捕らわれていて、香彩は気付くのが遅くなった。自分を後ろから抱き竦める紫雨の腕が、僅かに震えていることに。  紫雨の様子に香彩は更に戸惑う。  普段こういった『弱さ』を、紫雨が自分に見せることは殆どない。だから余計にそう思うのだろうか。逞しいはずの彼の腕が、途端に自分に縋っている腕のように思えてくるのは。それで尚克、自分の存在を己の腕で確かめているかのような、そんな気持ちになるのは。  紫雨、と香彩は今一度、彼の名前を呼んだ。  その声に促されたかのように、紫雨が大きく息を吐きながら呟く。  お前が無事で良かった、と。  

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