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第343話 撞着憤む 其の四

 一度開き直ると前向きになる香彩(かさい)だが、時折その前向きの気持ちを保ったまま、とんでもない方向に進むことがある。今まで何故そうなるんだと、さりげなく香彩の軌道修正をしていたのは(りょう)と、目の前にいる紫雨(むらさめ)だった。  療は相談という形で。  そして紫雨は『悪役』という形で。  くつくつと笑いながら紫雨が、酒杯に並々注がれた神澪酒を一気に呷る。   「──逃げ場所は提示した。後は竜紅人(あいつ)が捕まえに行けばいいだけの話だ」 「逃げる前提なんだ」    療のその言葉に、紫雨がますます面白いとばかりにくつりと笑った。   「逃げないとでも?」 「ん──……」    力なく療は空笑いをする。  まさかこの後に及んでとは思うが、別方向に突き抜ける香彩だ。あの真摯な目がまさか『逃げる覚悟を決めた目』だとは思いたくない。  思いたくないが、何せ香彩には前例がある。   「それで『逃げ場所』を作って上げるだなんて優しいよねぇ、紫雨」 「探す手間を考えれば楽だろう? 以前お前と香彩が桜香(おうか)に会いに、紅麗に行った時のことを忘れたか? とんでもない形相で香彩はどこだと、俺の政務室に飛び込んできたんだんだぞ竜紅人(あいつ)は」 「あ、そっち方面にも一応、配慮してるのね」 「両方厄介だが、竜紅人(あいつ)には実害があるからな」 「あ──……」    四つある城門の一つ、白虎城門の先にある街道の石畳を破壊し、桜の木々をこれでもかと薙ぎ倒したのは記憶に新しい。そして幽閉前に上位の竜である黄竜と争って、地面を深く抉り、山の木々も広範囲に渡って薙ぎ倒したのだ。  実害を防ぐ為に香彩に逃げ場所を先に示しておけば、あの時のように混乱して気配を読むことすら忘れていた竜紅人(りゅこうと)に、明確なことを答えられると紫雨は踏んだのだろう。少なくとも香彩がどこに逃げたのか分からない、という事態は防げると。   「それに怒りをこちらに向けられても困るのでな。以前のように突進してくる蒼竜を止める『力』など、俺にはもう残されてない」 「流石に竜ちゃんももう香彩のこと、ある程度分かってるだろうし、そんなに混乱しないとは思うけど、もしそんな状況になったらオイラが止めるよ」  「──ああ、任せる。その時は出来るだけ中枢楼閣から離れてくれ。何かしら壊して咲蘭(さくらん)の奴に嫌味を言われたくないのでな」    紫雨の心底嫌そうな物言いに、療はくすくすと笑うと素直に(いら)えを返す。  彼は再びくつくつと笑いながら、酒杯に酒を注ごうとした。だが酒甕はすでに空になっていて、紫雨は新しい酒甕の封を開けようとする。   「紫雨、いくら強くても流石に飲み過ぎじゃない?」 「……」    饒舌だった紫雨は打って変わったかのように、無言のまま酒甕を開けた。  ぶわりと再び部屋を、そして紫雨と療を包み込むのは、濃厚な神澪酒の酒気だ。すでに室内に蓄積されている物の上に更に覆い被さるような、そんな何層もの白い空気に療の身体は更に熱くなる。  療は無意識の内に身体の熱を冷まそうと手で扇ぐ。だがそれも馥郁とした神澪酒の酒気を、顔に浴びせるだけに終わってしまう。   (ああ、これは)    酒気を逃がさないと、危ないかもしれない。  どこかふわふわとした頭の中で、そんなことを思う。 

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