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第344話 撞着憤む 其の五

「……暑いよね、ちょっと。少し空気入れ換えるね、紫雨(むらさめ)」    (りょう)は酒杯を持ったまま立ち上がると、背後にある露台へと通じる、玻璃の入った引き戸を開ける為に紫雨に背を向けた。  もしもこの時、酒気に満たされた身体ではなかったら、療にまだ判断力が残されていただろう。  いまこの状況で紫雨に背中を見せることが、どういうことなのか。     酒杯の割れる乾いた音を、どこか遠くで聞いた気がした。  それが自分の持っていた物なのだと気付いた時には、背中から強く抱き竦められていた。  全身を酷く熱い体温と酒気に包まれる。  玻璃の引き戸を開けようとしていた手すら、覆い被さるように力強く握り締められて。    ──行くな。   ──行くな……──!     己の魂を削って絞り出すかのような声で、紫雨は呼んだ。  この場にはいない者の名前を。   (ああ……そっか)    この玻璃の入った引き戸を開けて、彼はこの腕から旅立ったのか。  そうして本当ならば、悲痛で苦し気な声を上げてでも、紫雨は彼を引き留めたかったのだ。自分の傍に置いておきたかったのだ。  ずくりと心の奥が痛む。   自分は求められていない。  紫雨が求めているのは、たったひとりなのだと初めから知っていたというのに、ひどく心が痛くて仕方ない。   (オイラは……──じゃないよ、紫雨……っ)    代わりじゃ嫌なのだと、心が悲鳴を上げて叫んでいるというのに。  療は自分の心を、泣き叫んでしまいたい激情を、心の奥に閉じ込める前に完膚なきまでに殺した。これは必要のないものだ。縋り付くかのように療を背中から抱き締めている紫雨にとって、必要のないものなのだ。   力強く、ぎりと自分の身体を締める腕。   (ああ、紫雨。貴方は……)  (こんな風に抱き締めるのか) (ずっと抱き締めていたかったのか) (それなら)               貴方に一時の夢をあげよう。  偽りの夢だけれども、それでほんの少しだけでも貴方が救われるならば。  明日からまた歩いていけるならば。   「──どこにも行かない。()()どこにも行かないよ、紫雨」    囁くように言いながら紫雨の腕にそっと手を置けば、まさにそれが引き金だったのだろう。手の甲を覆っていた紫雨の手が療の頤を掴むと、半ば強引に療を自分の方へと向けさせる。  降ってきた噛み付くような接吻(くちづけ)を、療は甘んじて受け入れた。  気付けば赤い絨毯の敷かれた木床に背中が付く。  広がるのは陽に当たった新緑の葉のような、綺羅綺羅とした鮮やかな緑の髪だ。すっかり神澪酒の酒気に染まってしまった髪を、骨張った指が何度も何度も愛でる。やがてその悪戯な指はゆっくりと下がり、滑るように衣着の合わせ目に入り込む。   「いいか……──」    熱い吐息がまだ唇に当たる距離で呼ばれる、違う名前。  もうこれ以上聞きたくなくて。  療は応えの代わりに、彼の薄い唇に自ら口付けたのだ。    

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