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第349話 解放 其の三

   香彩(かさい)は敢えて黄竜の問い掛けには答えず、淡々とそう告げた。  冴え冴えとした翠水の瞳が、何の感情も乗せずにただ黄竜を見ている。  身体の火照りとは裏腹に、香彩の心の一番奥は一等静かだった。それはまるで色もなければ形もない虚空のようであり、波の立たない鏡のような水面のようでもあった。何を言われてもいいように、どんなことになっても動揺しないように、心にいくつもの保険を掛けたのだ。香彩の中で答えがたったひとつしかない以上、もっと心を強く在らねばならないと覚悟を決めて。  黄竜はそんな香彩に何を思っただろうか。   『……分かった。でもこれだけは許して、香彩』    香彩の視線から逃れるように瞬きをしたかと思うと再び、ぐる、と唸った。  するとどうだろう。  黄竜の前に光の輪が現れた。  輪は優しい光を放ち、くるくると回りながら、香彩の首元辺りで消える。   「今のって……」 『うん、オイラの神気で作った番避(つがいよ)けだよ』  「番、避け……?」  『真竜は御手付きを得ると、一定期間を経て発情期に入ることは説明したよね?』    こくりと香彩が頷く。  確かあれは蒼竜と喧嘩別れしてから、壌竜(じょうりゅう)の事件に巻き込まれた後のことだ。壌竜の想いに引き摺られる形で、蒼竜が発情期を迎えた。あの時はまだ蒼竜に応えることが出来なかったから、(りょう)と逃げる道中で説明を受けたのだ。   『御手付きが発情期の真竜に、項を牙で刺されると番になる。ただ噛むだけじゃなくて、牙から送り込まれる精よりも濃厚な神気を、長い時間を掛けて御手付きに送り込んで、御手付きの身体を変化させることによって成立するんだ。番になったら人は、見た目は人だけど人じゃなくなる。徒人とは生きる時の流れも変わるし、何よりも生死をも真竜に支配されることになる。番となった真竜が死ねば、同じく番となった御手付きも死んでしまう』 「──っ!」    香彩は先程までの心の静けさが嘘のように、息を呑んだ。  黄竜の言っていることが、聞こえているのに頭に入ってこない。   (真竜の……番) (項を、牙、で……?) (人じゃ、なくなる、って……) (生死も、支配、されるって……──!) 「──何で、そんな大事なこと……っ!」    もっと早くに教えてくれなかったのか。香彩はそう言葉を続けようとした。  だが思い出したのだ。  一体いつ療に、そして竜紅人(りゅこうと)に、そんな余裕があったのか、と。  だから今、療が説明をし『番避け』をしてくれたのではないのかと。   「ごめん……ごめん、療。僕……」    言いかけた香彩の言葉を、きゅうと少し高めの声を出して黄竜が遮る。   『オイラの方こそ、ごめんね香彩。今になってこんなこと言われたら動揺するだろうって分かってたんだけど、でもどうしても知っていてほしくて』 「うん、そうだね。ごめん、療」 『オイラの神気で作った番避けだから、蒼竜には絶対破れない。だから安心して』    香彩は大きく息を吐いて頷いた。     ──人ではなくなる。  ──生死を支配する。     この言葉に香彩は大いに動揺した。 

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