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第351話 解放 其の五
「あ……」
香りはだんだんと強くなる。
まるで自身の身体に纏わり付くかのようなそれに、香彩 は無意識の内に艶やかな声を上げてしまいそうになった。
まだ目の前に黄竜がいるというのに。
「──っ!」
香彩は奥歯を噛み締めて堪える。
まだこんなものではないはずだった。初めて蒼竜の発情の匂いを嗅いだ時のことを、香彩はよく覚えている。ほんの少し嗅いだだけで、身体の一番奥にある蕾が緩やかに花開き、瑞々しい雫が滴るようだった。
まだ黄竜は完全に結界を解いていないのだろう。
香彩は崩れ落ちていきそうな身体を何とか奮え立たせながら、どこか滲んだ視界の向こうの黄竜を見る。
黄竜の身体は門上から離れていた。
『ねぇ、香彩』
空高く浮かんだ黄竜は、その優美な巨体をくねらせながら、太くて長い首と口吻をある方向へと向けていた。
そうして紫闇の瞳だけが、香彩に向けられる。
返事をしようと思った。
だが更に強くなる蒼竜の香りによって、煽られた甘い吐息が口から零れてしまいそうで、香彩はその瞳を見ることしか出来ない。
『ちゃんと向き合わないと、そろそろ竜ちゃんも怒ると思うよ。それに一度はさ香彩、がつんと怒られた方がいいと思うよ、オイラは。まぁ竜ちゃんって、どっちかというと過保護だから、怒りながらも許しちゃうんだろうけど』
深く深くため息をつきながら黄竜はそんなことを言った。
真竜の中でも上位に位置する黄竜は、万物を視 ると謳われている。果たして黄竜はどこまで知っているのだろう。どこまで視ているのだろう。
過去のあの幻影か、それとも未来に起こり得る幻影か。
『……どうしても駄目だって思ったら、オイラ呼んで、香彩。すぐには無理かもしれないけど、必ず行くから』
それは一体どういう意味なのだろうと、黄竜に聞きたかった。
自分の身に、この心に何が起こるのか、知ってしまいたいと思った。
だが時に上位の竜は気まぐれであり、人を見定める。答えなど簡単には教えてくれない。それでも何かあったら呼べと言う療 の言葉が、真竜としてなのではなく、友人としての言葉なのだと香彩は気付くのだ。
──じゃあね。
そう一言、黄竜が軽く挨拶をして、更に空高くへと舞い上がる。
彼 の竜の向きからして、これから中枢楼閣へと帰るのだろう。
もしかしたら紫雨 のところに報告に向かうのかもしれない。
香彩の思考がまともに働いたのは、ここまでだった。
蒼竜屋敷を覆っていた黄金の光が、薄れてやがて完全に消え去る。蒼竜を幽閉していた結界が、完全になくなったことを意味していた。
療が内に取り込んだ香彩の血液を媒体に、黄竜の神気を織り込んで作られていたそれが、どんなに強力なものだったのか、香彩は身を以って知ることになる。
須臾にして視たもの、それはまさに『香りの奔流』とも言うべきものだった。
「あ……」
どんなに衣着の袖口で鼻と口を覆っていても芳しく甘い濃香が、香彩の身体を柔く抱き締めるかのように包み込む。匂いは衣着をも浸透し、白い肌に擦り付けられているようにも感じる。
(……ああ、甘い)
(甘くて、甘くて、おかしくなってしまいそう)
香りの誘惑に抵抗しながらも、香彩はついに本能に負けて袖口を顔から離した。
この香りがとても良いものだと、身体が知っている。
何故ならこの香りは蒼竜が自分を求めて、ここにおいでと誘う為に放っているものだからだ。
「……っ」
香気に誘われるがままに、香彩は両腕で自分の身体を抱き締めながら歩き始める。こうでもしないと、あまりにもいい香りに身体の力が抜けて、崩れ落ちて行きそうだった。
だが、ついに。
「──っ、んっや、やぁぁっっあぁ……──!」
門を越えて更に増す馥郁とした芳香に、香彩は膝を付く。
艶やかな色声を惜しみなく上げながら、蒼竜の発情の匂いを押しのけるように、ぶわりと香るのは御手付きの甘いそれ。
気付けば香彩は、纏った袴の中で白濁とした熱を放っていたのだ。
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