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第352話 自我と忘我の狭間

 不意にまるで長い夢から覚めたかのように、竜紅人(りゅこうと)(かす)かな自我が舞い戻る。  それは常ではなく、神気から作り出した思念体がこの本体に戻ってきた後の、極僅かの間だった。何の因果かは分からない。だがすぐに狂おしいまでの発情の念に駆られてしまうことは、一度目の思念体を戻した時に経験済みだ。  自我を失っている時のことはあまり覚えていない。  だが求めて止まない者の存在に(かつ)えて飢えて堪らず、唸り声を上げていたことをなんとなく覚えている。黄竜の結界の中に残る香彩(かさい)の気配に慰められながら、時が来るのをじっと耐えていた。  だが自我と忘我の狭間は残酷だ。  ──りゅう……。  不意に脳裏に響くのは、聞こえるはずのない香彩の声だった。  どこか艶めいて聞こえるそれを、竜紅人は大きな蒼竜の頭を振って払う。だが一度でもその姿を思い描いてしまったが最後、むくりと湧き上がる衝動を竜紅人は前脚を噛むことで抑え込んだ。  ──りゅこう……と。  ああ駄目だ。  自分の名前を呼ぶその声を、啼かせたい。  敵わないと分かっていても、今すぐに黄竜と争って結界を破りたい。  そうして香彩の元へ飛んで行って、前のようにこの竜の片脚であの華奢な身体を押さえ込み、衣服を食い破って、露わになった後蕾に己の剛直を突き立てたい。  この凶刃で香彩の胎内を犯し、征服し、奥の奥まで屈服させ、宥めて赦しを乞い、やがてその温かな胎の内に全てを吐き出して、包み込まれる。その瞬間まで己の渇望は治まることはないのだろう。   『考えるな……!』     苛立ちを隠さずに竜紅人は言葉を音にした。  だがそれはすぐに竜のくぐもった唸り声へと変わる。  噛んでいる前脚に今一度深く牙を差し込んで、再び衝動を抑えようとした。自我を失ってしまえば、上位の竜でもある黄竜と争うことを本能が拒否するだろう。だが自我のある内は香彩を求める欲望が、本能を凌駕してしまうことを竜紅人は何度か経験している。もしも万が一結界が破れて自身が香彩の元へ辿り着いてしまったら、きっと自分は後悔する。  今はまだ駄目なのだ。  だがいずれ、愛し子は全ての準備を終えて自分の元を訪れる。   『香彩……かさい……』    名前を呼べば呼ぶほど狂おしいまでの愛しさと、あの身体の全てを支配したいという色情の気持ちが生まれて溢れ出てくる。  一度知ってしまった愛欲は、発情期と相俟って尽きることはない。  啼く声の切なさと甘さを知っている。  愛し子が絶頂を迎えた時の、己の物の証でもあるあの甘い香りを知っている。   『かさい……俺の、かさい……』    もう耐えられないのだと喘ぐかのように、竜紅人のその声は蒼竜の低い咆哮になる。  忘我が、再び竜紅人を襲おうとしていた。  竜紅人の中の『人』の部分が、蒼竜に覆い隠されそうになるその刹那。  彼は聞いたのだ。  耐え難いものを必死で耐え、それでも耐え切れなかったと言わんばかりの、艶やかな法悦の声を。  彼は嗅いだのだ。  この発情の香りを押し返すほどの、濃厚で甘い御手付きの芳香を。  ──ああ、ようやく。   御手付きが自分の所へ帰ってきたのだ。  さぁ、どう愛してやろうか。  心底飢えていたあの愛しい存在を。  どう屈服させようか。    そんなことを思いながら竜紅人の意識は、再び発情に呑まれていったのだ。

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