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第374話 深い縁 其の四

 確かに竜紅人(りゅこうと)から離れようと思った。蒼竜の発情を終わらせて正気に戻った彼と話をして、その結果次第では自分ひとりで三体の真竜を生むのだと覚悟を決めた。  夢現(ゆめうつつ)と現実は違うのだと、心に幾重に渡って掛けた保険が。線引きをしたあの氷のように冷たくて、凪いだ心が。   (……縁を薄めてしまったのだとしたら)    紅竜は香彩(かさい)にとって名前に由来するものだ。  そして小蒼竜は元は、嘆きと渇望の果てに竜紅人が生み出した、香彩に瓜二つの存在だ。  二体の真竜は香彩と竜紅人と縁が深い。  だが香彩が竜紅人から離れようとしていることで、紅竜と小蒼竜が誕生しなくなるのだというのなら。  生身の香彩を見て正気に戻った竜紅人が何を思うのか、その答え次第でも誕生しなくなるということだ。   (なんて、こと……だろう)    香彩は底のない深い沼に落ちて行くかのような、途方もない絶望に打ち(ひし)がれる。  熱さえ貰えれば三体の真竜が、自分の胎内に宿るのだとばかり思っていた。たとえ竜紅人に拒否されたとしても、愛しい人と自分の気配を持った小竜達と、どこか違う場所で穏やかに暮らして行ければいいと、そう思っていたというのに。   『──どうか妹達を……』    突如として目の前にいた壌竜(じょうりゅう)と銀狐の気配が薄くなり、夢床(ゆめどの)そのものがだんだんと消えていく。それはまさに香彩の夢からの覚醒を意味していた。夢を見られるような精神状態ではなくなったと言うべきか。  助けて欲しいと壌竜は言った。  無理だ。無理なのだ。  自分は竜紅人に対して、蜜月を迎えた真竜に対して、取り返しのつかないことをしてしまっている。  それでも彼は言ったのだ。     ──覚えておけよ、香彩。お前がどんな目に遭おうとも、どんな風になろうとも、泣いて叫んで頼んでも、俺はお前から離れない。離さない。俺の身体を忘れられなくなるくらいに、どこへ行っても何をしてても思い出して、疼いて、俺を求めるくらいにお前の身体に刻み込む。お前の言う『好き』を怖いと、思える暇などないくらいに。たとえ逃げても狩猟本能で、どこまでも追い掛ける。    あの時の言葉にどれほど救われただろう。  だが所詮は夢床だ。  自分の意識下にある縛魔師の夢の中で、竜紅人の言葉を自分の都合良く書き換えてないなどと、どうして言えるだろうか。   香彩の思考を遮るかのように、けぇぇんと銀狐の(つんざ)く鳴き声がした。  白い世界へと還っていく夢床の中で、銀狐が叫んでいる。    ──どうか貴方様の中にある『好き』を、今一度信じて下さい。私が貴方様に残した『好き』をどうか。  ──貴方様の中にある『好き』と蒼竜様の中にある『好き』を、どうか……、と。    『好き』を信じる。  それは。  なんて難しいことなんだろうか、なんて怖いことなんだろうかと、香彩は思う。  同時にどんなに自分だけが心を砕いても、ひとりではどうすることも出来ないこともあるのだと、思い知る。   「……ごめんね銀狐、壌竜」    ごめんね、と。  もう見えなくなってしまった銀狐と、苔色の竜のいた場所に向かってそう言った。  そして僅かにまだ気配の残る球体を、ぎゅっと抱き締める。   「ごめんね……ごめんなさい。紅竜」  そして──桜香。    この竜核はどうなってしまうのだろう。  自分と竜紅人の気配を持った、がらんどうな生命の欠片を、療は助けてくれるだろうか。  手を、差し伸べてくれるだろうか。   「何とか出来るのなら、僕はこの血肉を捧げるから。だからどうか」    ──どうか消えないで。  香彩の意識の浮上によって、球体はだんだんと見えなくなる。覚醒する最後の最後まで、香彩は謝りながら、そして祈りながら、球体を抱き締め続けたのだ。  祈りと謝罪に心がいっぱいだった香彩は、気が付かなかった。  香彩自身が夢床から姿を消す最後の瞬間に。  とくり、と。  球体が確かな鼓動を打ったことも。  そして。  大きなひとつの球体だった竜核が、ふたつに分かれたことも。             

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