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第382話 求愛 其の一

 香彩(かさい)は裸体に上掛けだけを羽織った、あられもない姿で渡廊を走っていた。息が苦しくて心の蔵がやけに脈打つのは、決して駆けているからだけではない。  どきり、どきりと胸が鳴る。  心の中はまるで嵐のように、感情が渦を巻いていた。  どうして、なんで、竜紅人(りゅこうと)人形(ひとがた)になったのか。もう発情期は、罰は終わったのか。  そして。   (──なんで僕は、彼の前から逃げ出してしまったのか)    嫌われたくない、怖い。  あの綺麗な伽羅色の瞳が、自分を映し出す刹那の感情を見たくない。でも話さなければならないことがあるというのに。謝らなければならないこともあるというのに。鬩ぎ合う感情が、香彩の足元を不安定にさせる。  よろめきながらも香彩は、息を切らせて走った。止まるわけには行かなかった。彼が後ろから追い掛けて来ているのが、気配で分かる。  どこをどのように走ったのか、香彩には分からなかった。だが以前見た中庭の景色が見えてきて、湯殿が近いことが分かる。  香彩は目的の引き戸を勢い良く開けて、湯殿の休憩処へと入り、内側から鍵を掛けた。  引き戸に背を付いて、荒く息をつく。  どくどくと、心の臓が胸から飛び出して来そうなほどの鼓動が感じられて、無意識の内に手で胸を押さえる。  そういえば以前もこんなことがあったなと、息を整えながら香彩は思った。あれは中枢楼閣第六層目にある、湯殿の脱衣所だ。竜紅人から逃げたくて堪らなくて、脱衣所の鍵を掛けた。あの時の彼は、今を思えば容赦をしてくれたのだ。彼の心内で色々と思うことはあっただろうに、決して追い掛けて来ようとはしなかった。   (……だけど今回は)    香彩の後を追い掛けて来ている竜紅人が、容赦などするはずがない。  香彩は荒く息をつき、よろめきながらも湯殿へと続く引き戸に手を掛ける。湯殿は中庭のよく見える露天だ。そこからなら白虎を喚び出して、蒼竜屋敷から飛び立つことが出来る。少し時間が経てばこの狼狽した心も落ち着くだろうから。  だから。   「(びやっ)……」    湯殿の引き戸を開けて、白虎の名を呼ぼうとした須臾(しゅゆ)。  耳元で風が唸った。  まるで極限にまで張った糸を、指で弾いたような空気の振動だった。  何事かと香彩が後ろを振り向こうとしたその時だ。  ゆっくりと休憩処の引き戸が、内側へと倒れていくのを香彩は見た。引き戸は大きく凹み、やがて大きな音を立てて厚手の敷物の上に倒れる。  分かっていたはずだ。  彼が本気を出したら鍵付きの引き戸など、何の役にも立たないことなど。  倒した引き戸を跨いで竜紅人が休憩処に入ってくる。  視線が合った。  きっとその伽羅色は何故逃げるのだと、赫怒の念に灼かれているのだと、そう思っていた。  だが。   (──え……)    彼の瞳はまさに憂愁に閉ざされたような、悲しげな眼差しで香彩を見つめていた。  ああ、その瞳には、覚えがある。  罪悪感という名の心の蜘蛛に捕らわれた、根本そのものだ。蒼竜の幽閉前、紫雨(むらさめ)だけを悪者にしたくないと彼に対して仕掛けた時に見た、蒼竜の悲しげな眼。  それとまさに同じ感情を乗せた瞳が目の前にあって、香彩はまるで自分が自身の存在そのものを、竜紅人の瞳に捕らわれたような気持ちになった。    ここから動くことも出来ない。  視線を逸らすことも出来ない。  ただただ、捕らわれて。  気付けば正面から抱き竦められる。  久方振りに感じた彼の、生身の腕は震えていた。       

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