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第383話 求愛 其のニ

 いつも自分を守ってくれた、力強い腕だというのに。  いまも自分を強く、抱き締めている腕だというのに。  悲哀の色が深く漂う、先程の竜紅人(りゅこうと)の瞳と相俟って、どうして彼がこんなことになっているのか、香彩には分からなかった。   (──もしかして僕が、竜紅人の顔を見た瞬間に逃げた、から……?)    自分の感情に囚われすぎて、彼が心内で本当に何を思うのか、考えたことがあっただろうか。  竜紅人の瞳と腕の震えが、香彩(かさい)の心の中にこびり付くように存在していた『怖い』という感情を、少しずつ溶かしていく。香彩が『怖い』と思うように、竜紅人もまた何かしらの原因で、香彩を『怖い』と思っているのだとしたら。      その『怖さ』を知りたいと思う。  その『怖さ』を取り除きたいと思う。      香彩は恐る恐る自分の腕を、竜紅人の背中に回した。  りゅう、と小さな声で呼べば、更にきつく、きつく抱き締められる。遠慮を忘れて自分にしがみつく両腕の、込められた力の切実さが、もう離さないと言われているかのようだ。  どうしようもなく胸が締め付けられる。  ああ自分はこの人が、どうしようもなく好きなのだという感情が溢れてきて堪らない。  かさい、と耳元に落ちてくる久々の肉声と吐息の熱さに、香彩の身体はびくりと震えて素直な反応を見せた。   「逃げるなよ……どこにも行くな」    まるで戯れる蒼竜のように鼻先を耳朶に擦り付けられて、思わず漏れそうになる声を必死に噛み殺す。   「御契が怖かったのか? 逃げたくなった? やっと現実(ここ)で二人きりになったんだ。誰も喚んでくれるな。俺の知らない内に、どこかへ行かないでくれ……かさい」    竜紅人の声は窒息しそうなほど、どろりと溶けていて甘い。耳に直に吹き込まれる掠れた低い声は、未だに溶けない熱を孕んでいるようにも聞こえた。  本来ならばその声を聞くだけで、腰元の力が抜けてしまいそうになっただろう。  だが香彩の頭の中は、様々なことで感情がもう一杯だった。  抱き締められた体温の、あまりの熱さだとか。  あまりにも甘い声だとか。  どこにも行くなと言った刹那の、彼の腕の震えだとか。  自分の想像していた未来よりも想定外の出来事に、どうすればいいのか分からない。香彩は縋るように竜紅人の背中の衣着を、きゅっと掴んだ。  だがふと我に返る。  彼の腕に翻弄されて、とても大事なことを忘れそうになった自分を心内で叱咤する。香彩は竜紅人の背中に回していた腕を離した。そうして何とか彼の腕から逃れようとする。   「……お願い、竜紅人。離して」    自分は彼から抱き締めて貰えるような、綺麗なものではなくなったのだ。   「僕はもう『貴方だけの僕』じゃなくなった。蜜月どころか、貴方以外の人に二人も抱かれた生身の身体(・・・・・)だよ。気持ち、悪いでしょう? お願いだから離して」    

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