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第408話 いつか…… 其の一
意識が浮上して初めに見たものは、竜紅人 の骨張った大きな手だった。自分の手の甲を覆うようにして握り締められている手を、香彩 は少しばかりの間、ぼぉうとした頭で見つめていた。
手がとても温かい。
そして背中も、とても。
どうやら背中から抱き締められて、眠っていたらしい。
上掛けも肩まで丁寧に掛けられている。
ふと視線を上げれば見慣れない天井が目に入った。何の変哲もない木目の天井に、そういえばここはどこだったのか分からなくなる。
ふと独特の暖かく湿った空気のようなものが鼻を掠めた。
ああ、湯殿だ。
頭の中が理解した途端、今までのことを思い出してしまって、香彩は勢い良く身を起こした。竜紅人の腕を無理矢理外すような起き方をしてしまったが、彼は眠りが深かったのか起こさずに済む。
どうやらあのまま湯殿の休憩処にある、この簡易的な寝台で事に及び、気を失ってしまったらしい。
しかも身体にべたつきなどの気持ち悪さがない上に、いつもの薄紅色の下衣を身に纏っている。きっと竜紅人が後始末をして身体を拭いてくれたのだろう。
「……りゅう……」
香彩は起こさないように小さな声で彼の名前を呼んだ。
竜紅人を見れば彼の上半身は何も身に付けていなかった。彼の蒼色の衣着を盛大に汚したことを思い出して、香彩は居たたまれない気持ちになる。そして汚されたことに
対して、喜色を浮かべていた竜紅人を思い出して、心の中で叫び出しそうになった。
その、須臾 。
「──!」
温かい湯気の匂いの中に、懐かしい香りがした気がして香彩は誘われるかのように寝台から降りた。
すん、と子犬のように鼻を鳴らして、香りの元を辿る。
ふと目に入ったのは、竜紅人が壊した引き戸。
「……っ!」
何も言葉にならないまま、香彩は走り出した。
まさか。
まさか。
辿り着いた休憩処の入口で、香彩は茫然と立ち尽くした。
目の前には中庭があった。
ふわりと風に乗って、香彩の近くにはらりと落ちるのは薄紫色の花片だ。
かつて中庭で枝を打ち捨てられ朽ち果てた神桜が、見事な花を付けて咲き誇っていた。
「あ……」
真竜の御手付きの香りによく似た、神桜の甘い香り。育む土の馥郁たる香り。そして竜紅人の香りによく似た森の木々の爽やかな香り。
その全ての香りを感じて、香彩は『視』る。
三頭の竜達が仲良く遊んで笑う、そんな光景を。
「……っ」
神桜をよく見たいのに、あの光景をもっと見ていたいのに、何故か視界が滲んで堪らない。
そんな香彩の背中を後ろから優しく抱き締める、逞しい腕がある。
「……りゅう……、神桜が……みんなが……っ」
「──ああ」
「いま視えたんだ。どこかの草原で三頭の小さい竜達が遊んでて、僕達がそれを見ながら笑ってる、そんな幻影を」
神桜を見ながら言う香彩を慈しむように、竜紅人が耳輪に接吻 を落とした。
「幻影じゃねぇよ。そんな未来、すぐに現実になる。きっとあいつらお前に似てよく食べるだろうから、屯食 たくさん作って遊びに行こう、かさい」
「──うん……!」
腕の中にいた香彩が竜紅人へ振り返る。
泣き虫、と囁いた竜紅人が香彩の眦を軽く吸った。
大粒の涙はしばらくの間、止まることはなかった。昂ってしまった感情のままに、香彩の頬を伝う。
ようやく成ったのだ。自分の中にあった竜核は無事、真竜としての生を持った。神桜の復活を見たと同時に、土の香りと森の木々の香りがした。それはまさに三頭が個として成った証でもあったのだ。
だって、と拗ねた口調で言い返そうとする香彩の唇を、彼の唇で塞がれる。
体温が高い人形の竜紅人の舌は、香彩にはとても熱く感じられた。熱くて甘い。そんな舌が悪戯をするかのように、香彩の舌に柔く絡む。
お互いに一頻り、唇を柔らかさを堪能して離れた。
「ねぇ、りゅう」
「ん?」
吐息が唇に触れるそんな位置で香彩が呼びかける。
「りゅうの罰は……終わったの?」
こつんと額を合わせながら香彩は聞いた。
発情期中は人形 に戻ることが出来ないのだと、療 が言っていた。しかしそれは発情が薄まるなり収まるなりすれば、人形を執ることが出来るようになるということだ。
だが竜紅人には罰の制約がある。
竜形も当然好きだ。だがいまは竜紅人の人形の、温かい体温を感じていたいと思ってしまう。
香彩の言葉に竜紅人が軽く首を横に振った。
「──いや、まだ罰の最中だ。だが一時的に制約が外れている」
「一時的?」
「ああ、もしかしたら話が出来るようにっていう、あいつの計らいかもな」
計らいという言葉を聞いて、香彩はふと自分の気配を探った。
療が施した『番除け』が消えている。
「そういえば僕の……項の制約も」
「やはり計らいか。それともこちらに制約をかける余裕がなくなったか」
ふと香彩は思い出した。
黄竜の姿の療と蒼竜屋敷の門上で別れる時に思ったのだ。
療はこの後、紫雨 に報告に向かうのだろうと。
(……何か)
あったのだろうか。
そんなことを考えた刹那。
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