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第7話 光と闇

「役立たず」  ルビーを溶かして作られたような紅い液体が、床にひざまずき頭を垂れる短髪の男の頭上に零れ落ちる。  杯を傾けたのは男よりもはるかに年若く、瑞々しい若木を思わせる青年だった。輝くような波打つプラチナブロンドに、夏の湖に似たエメラルドグリーンの瞳。椅子に腰かけたまま床の男を睥睨する横顔も、神話の神々を掘り出した彫刻のように完成された美しさだった。 「私はルシオを捕まえて来いと言った。それ以外の報告など聞きたくない」  その表情を少しも崩すことなく自分の父親ほどの年齢の男を叱責する声も、天上の調べを奏でる楽器のごとく美しい。  床に跪く男は頭からワインを被ったまま身じろぎ一つせず絞り出すように言葉を発する。 「申し訳ありません、アーク様……!」  アークと呼ばれた青年は数多くの神子の中で唯一、神の声を聞き、大聖堂に仕え、国の祭事に関わる神子だった。その容姿も手伝って、国内だけでなく国外の信者たちからも崇拝を集める、教団の象徴的な存在だ。  大聖堂のある王都には、教団の教徒たちが大勢住まう一画がある。その一番奥に、大司祭や司祭など教団の中枢を担う人間のための大きな屋敷があった。アークは、その屋敷の中でも一際広い部屋を与えられていた。  部屋の中央には天蓋の付いたベッドがしつらえられていて、この部屋の中で大きな存在感を放つ。シルクジャガード織の掛け布は豪奢で、天蓋から垂れる深紅の布もたっぷりとした襞を寄せてある。あとのソファやテーブルなどの調度品も確かに高価であることは一見してわかるけれど、ベッドに比べるとおまけのように隅に追いやられている。この部屋ではベッドを軸に家具が配置されていた。  バルコニーのすぐ内に置かれたマホガニーと深紅のビロード張りの椅子に腰かけて、アークは空になった杯を脇の机に戻す。バルコニーの向こうに広がる真っ白な雪は、暗闇に引き立てられ、それを塗り潰すかのようにひっそりと王都を塗り替えていく。  五日前、山あいの国境付近にある塔からルシオが姿を消したという報告を受けて、教団は即座にルシオに追手を差し向けた。塔に一緒に住まわせていた修道士たちに怪我を追わせて逃亡したというから、上層部の司祭たちも色めき立った。それは神への冒涜であり、教団への背信であり、司祭たちからすれば反逆であり、つまり飼い犬に手を噛まれたということなのだ。  逃亡したのは神子だというから、なおのこと許されない。神子は教団の中でも重要な役割を果たす。けれど、司祭たち上層部にとって辺境の地で子どもが一人逃亡を計ったなどの報せは、放ってはおけないが大騒ぎするほど大した事件でもなかった。どうせ森に入れば獣に食い殺されるだろうし、雪が降れば寒さと飢えでそこら辺りで野垂れ死ぬだろう。いずれにしても捕まるのが早いか遺体を見つけるのが早いかだと思われた。  教団へ立てつく人間を見逃すわけにはいかないし、逃亡者が出たという話が広まればほかの神子や教徒たちも希望を持つかもしれない。それは許されることではないので、可哀想だが神子は見つけ次第見せしめとして酷い罰を与えられて、もっと惨めな場所に移されることになるだろう。神子には手の内にある間は教団のために十分に働いてもらわなければ困る。  上層部は数人の僧兵を早馬で向かわせた。確か、北の国境付近の町の食堂で追い詰めたという報告ではなかったか。それなのに、つい先ほどの新しい報告ではルシオを取り逃がしたらしい。修道士の報告に、アークは驚きと苛立ちを隠せなかった。夜の森を無事に抜けたあげく、雪の降る中をなんと屋根伝いに渡って逃げたという。  一連の情報を、司祭の横で唇を噛みながら聞いていた。花びらのような唇を歯で破り血の味が滲んでから、アークは自室に急ぎ取って返した。すぐに、一人の修道士が部屋を訪れた。  アークの部屋には、基本的に司祭たち上層部しか入ってはこないが、時折、アークの気に入りの修道士の出入りを許され、司祭たちからも黙認されることがある。  細い指を修道士の頬に這わせながら、うっとりするような声音で囁く。 「大司祭様たちは、ルシオを見つけると酷い罰を与えるだろう。ルシオは私の友人なんだ。大切な友人が辛い目に合うのはしのびない。私が直接神にお許しを願うから、大司祭様たちより先に見つけて欲しいって言ったよね?」 「申し訳ありません……っ。子ども一人と少々油断しておりましたが、報告によりますともう一人大男が共に居たようで、」 「言い訳はいい。お前たちはルシオをここへ連れてくるなんて簡単なお使いもできないの? アルカディアに連れて行く人間を再考するべきかもしれないな」 「そんな……っ、どうかお救いください、アーク様! 神に背いた裏切者の神子までお救いになられようとするアーク様の御慈悲をどうか私めにも……! 次は必ず!」 「次?」 「食堂で二人が北へ向かう話をしていたようなのです」  ビロードの椅子に身体を深く預け、青年は凪いだ湖面のように表情の抜け落ちた瞳を虚空に漂わせる。 「……いいだろう。神はお許しになった。二度と神を失望させるな」  そう言って、ローブからのぞく素足で修道士の顎を持ち上げた。ローブの下は何も身に着けていないアークの足がふくらはぎまで露わになる。修道士は恍惚とした表情で青年を見上げると、その裸足をうやうやしく頂き爪先に口を付けた。 「いい子……上手にできたらご褒美をあげよう」 「……! はい、必ず、必ず神に背く神子をアーク様のお足元に!」  形の良い足を夢中で掴み、爪先から甲にキスの雨を降らせ、舌を這わせる。 「あん、だめだよ。ご褒美はお使いが上手くできたら、だろう」  白い素足はそのまま顔を軽く蹴る。そんな行為にも昏い悦びの表情をたたえて、修道士は退室していった。  独りになった部屋で、アークは苦々しくその美しい顔を歪めた。素足の爪先をローブの端でごしごしと擦り、それでも飽き足らずローブを脱ぎ捨てた。  一糸まとわぬ裸身を大きなベッドに勢いよく倒れ込んで沈める。白い肌に細く長い手足が未だ少年の面影を残し、けれど、早熟した果実のようにどこか危うげな色香を漂わせた裸体だった。 「ルシオ……」 呟く声は苛立ちを含み、その思いのまま枕を掴むと力一杯壁に向かって投げつけた。 「ルシオ……お前だけ自由になるなんて絶対に許さない……!」  コン、コン、と控えめに扉を叩く音がした。アークは、瞬時に苛立ちを身の内に引っ込めて生まれたままの姿で憂いを帯びた天使の様相を造り出す。 「……なんだ?」 「……大司祭様がお呼びです」  ぴくり、とアークの肩が震える。その瞳に一瞬の翳りがあったようにも見えたけれど、それもすぐに神々しいまでの美貌の中に消える。 「……わかった。準備をしてお部屋へ伺う、と」 「お伝えします」  扉の向こうの気配が消えると、アークは再びベッドに沈んだ。 ***  雪が降り続いている。ルシオとアルは、一気に雪深くなった道のりを足を取られながらなんとか進む。  昨夜、アルに担がれて宿から逃げ出したあと、二人は町はずれの羊小屋に潜り込み一夜を明かした。  町には戻れず、真夜中の闇の中をルシオを担いだまま、アルは迷いもなく走った。深くなった雪の足跡は、後から後から降り積もる雪が消してくれた。それを大男の肩の上から見ていたルシオは、降ろしてくれと訴えることを諦め、黙ってしがみ付いて遠くなる町の灯を眺めていた。  いくらも走らないうちにアルが止まり、ようやく地面に降ろしてもらえたルシオの目の前には簡素だけれど雪には埋もれていない羊小屋の扉があった。  羊の群れの中なら多少は寒さを凌げるかとも思っていたけれど、なぜかアルが小屋に入ったとたんに羊たちが騒ぎ出し怖がってしまったので、仕方なく二人だけで小屋の隅に固まって藁に埋もれて夜が明けるのを待つことにした。  ルシオは散々嫌がったけれど、アルに半ば強引に説得されてアルの懐の中にすっぽりと収まってその上からローブで覆われた。抱きすくめられて、アルにもたれかかって、密着する。  銃の扱いを教えてもらっていたとき、ルシオが覚えたのは銃の構造と撃ち方だけではなかった。集中して感覚を研ぎ澄ませば研ぎ澄ませるほど、アルの体温や匂い、触れ合った手の大きさや肌のさらりとした感触など、忘れたつもりでも消えてくれてはいなかった。  ルシオは元々人に触れたり触れられるのが苦手で、世話役の修道女たちですらルシオに触れるのは髪を梳かすときと祭事の衣装を着つけるときくらいだった。相手と状況によってはルシオが意識する前に反射で拒絶反応が起こることもある。  それなのにアルが相手となると、いつものように上手く距離を作ることができない。肩に担がれて屋根の上を逃げ回るという非常事態には自分からしがみ付かなければ降り落されてしまうし、懐に入ってお互いに暖を取らなければ凍死してしまう。だから仕方がないのだと自分を無理やり納得させる。  大きな身体に包まれて湧き上がって来る感情が恐怖や嫌悪なら、もっとはっきりと拒絶していつもの自分でいられた。けれど、ルシオ自身が憤まん遣る方ないことに、アルに腕を引かれて懐に収まったときに感じたのは安心感だった。その次にどうしようもない恥ずかしさと緊張、そして喜び。一度その温かさに眠りを誘われてしまうと、そこから抜け出すのは難しいことだった。どちらのものか分からない心臓の音に、馴染んでいく体温。意識する暇もなく、眠りの淵へと落ちていた。  朝を迎えてアルに起こされて頭がはっきりと覚醒したとたん、ルシオは真っ赤になってアルの身体を押し退けた。  羊小屋から出て一晩で分厚くまっさらに降り積もった雪の中を、二人分の足跡が北へ向かってのびる。 「昨夜のことだけど、」  少し先を行くアルが振り向くと、ちらつく雪が邪魔をしてその表情が翳った気がした。珍しく、ルシオをからかうでも散歩を楽しむ風でもなく、ルシオを見る目がどことなく寂しそうに細められる。 「……ありがとう。助かった。あれはなんだったんだ?」 「君の追手だろう」 「男たちのことじゃない。お前の身体能力のことだ」 「……怖かったか? 説明する暇もなかったからなあ」  いつもの朗らかな笑いではなく、自嘲するように表情を歪める。  なんだろう、元気がない?  ルシオは内心で首を傾げた。 「あれくらいのことに怯えていたら教団に立てつくなんてできないだろう」  ルシオの言葉にわずかに目をみはって、なにかを探るように、伝えようとするようにアルがじっとルシオを見つめる。 「? なんだ?」 「俺が、怖くはないか?」  ルシオは全く予期せぬ問いかけに、素直に驚いて思うままに応える。 「アルが? なぜ? 自分から危険に巻き込まれて、縁もゆかりもない人間を助けるようなお人好しを怖がる必要が? ああ、変な男だから用心しろってことか? それなら心配するな、僕は変態には慣れている」  ルシオの言葉を聞いたとたんに、アルが相好を崩す。 「……ふっ、そうか。まあ、怖くなかったんならいい。君は意外と図太いよな、昔から」  並んで歩いていてもアルの足はなんなく雪を踏みしめ、対してルシオは一歩進むごとに雪に足をとられ、下手をすると太腿のあたりまで雪に埋もれてしまう。苦労していることを悟られないように、ルシオは必死でアルの隣に付いた。幸い、昨夜少しでも眠れたからか体力は戻ってきている。 「昔からってなんだ。僕のなにを知ってるっていうんだ。 それより、あんな身体能力どうやって身に着けた? 僕も訓練すればできるようになるか?」 ぼすり、とまた右足が太腿まで雪に埋まって、思わず舌打ちする。 「……君には無理だな」  言いながら、ルシオの腕を掴んで引っ張り上げてくれる。 「やっぱり体格や体力が必要か。どれくらい鍛えればできるようになる?」 「……んん、まあ無理だと思うけれど、身体を鍛えるのはいいことだな、がんばれ。君はとりあえず、もう少し食べた方がいいがな」  アルはちらちらとルシオの歩みや速度を気にしながらゆっくりと足を運んでいた。  人々が行き交い、荷馬車が通るであろう歩道に辿り着くと、雪は多少踏みしめられ楽に歩けるようになった。二人の足跡も、荷馬車の轍や商人の足跡に混じりわからなくなる。追手からも追われにくくなるだろう。吹きすさぶ雪の中を一歩一歩並んで歩く。

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