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第8話 伝えられない気持ち
今朝まで降り続いていた雪は昼前には止み、今は珍しく青空までのぞいている。積もった真っ白な雪に太陽の光が反射して、そこここでチカチカと眩しい。
北の街は、ルシオが思っていたよりもずっと活気のある街だった。太陽の出ているわずかな時間帯を惜しむように、人々は一斉に家々から出て来たようだった。小さいけれど市場が並ぶ通りが広場を軸に街を横断していて、この積雪だというのにたくさんの人々が行き交っている。
「……! あれ、見ろアル、トナカイだ……!」
隣のアルのローブを強く引っ張り、街角の木に括りつけられたトナカイに顔を向けさせた。大きな角を上下に降り、飼い葉桶の中に顔を突っ込んでいる。
「本当だ、美味そうだな」
「え、美味そう……?」
はしゃいで差したままの指を所在なく降ろしながら、隣の男の顔を振り仰ぐ。
「なんだ、食うんじゃないのか?」
「……僕は食べたことはない。昔読んだ本ではソリを曳く生き物だと書いてあった。……そうか、食べるのか」
出会ってから一番がっかりした顔をしているルシオを見て、なにかまずいことを言ったようだとアルの目が泳ぐ。
「この国じゃ珍しくもないだろう?」
「ぐ……、そうかもしれないが、動物を見る度に“美味そう”という感想しか出てこないのか、お前は」
「んー、そうだな……、それじゃあ……速そうだな」
「速いかな!?」
我が意を得たりとばかりに、ルシオの目が輝く。もしかすると、この街ではトナカイのそりに乗れるかもしれない。馬の曳く馬車には乗ったことがあるけれど、トナカイの曳くソリは初めてだ。
「俺の方が速い」
なぜかアルが不満げに口を尖らせている。
「なにに対抗してるんだ?」
二人がそんな他愛もない会話を繰り広げていると、後ろから快活そうな女性の声が飛んできた。
「ソリに乗れるよ」
振り返ると、買い物帰りだろうか両手いっぱいに紙袋や麻袋を抱えた恰幅の良い女性がにこにことルシオたちを見ていた。
「あんたたち、この街は初めてかい? うちの街じゃ、トナカイは荷物運びに乗り物に観光資源、大切な家族も同然さ。うちにも居るよ、見に来るかい?」
「いいのか?」
ルシオの声が再びはしゃいで大きくなる。女性の側へ歩み寄ると、アルも後ろから付いてきた。
「あんたたち、旅の人かい? 今夜の宿はもう決まってるの?」
「いや、まだだ」
「良い宿を知ってるよ。うちだけどね」
あはは、と軽快に笑う女性は、どこかアルの明るさを彷彿とさせてルシオは一も二もなく頷いていた。
「部屋が空いていたら、ぜひよろしく頼む」
両手にいっぱいの紙袋の一つを、女性の手から受け取る。身長は女性とほとんど変わらないし、体格などは女性の方が良いくらいだけれど、これでも男だ。
「世話になるんだ、ご婦人に荷物なんて持たせられない」
フードに半分隠れていた顔を間近から見た女性は軽く目をみはり、ぽかんと口を明けた。反対隣からは、重たそうだった麻袋からミルクの瓶まで残りのほとんどの荷物をひょいとアルが担ぐ。すると、今度はアルのフードの下の顔を見て、ひゃあと小さく声を上げると頬を赤くした。
「美味い肉と酒はあるか? レディ」
「あらやだ、こっちのお兄さんもハンサムだねぇ。任せといで、美味しいステーキ用意したげるよ」
女性はにこにことアルの隣に並んで、宿への道を案内し始める。自分との違いはなんなのだと多少不満が表情に表れながらも、ルシオは二人の背中を追った。
肉汁の滴る分厚いラム肉のステーキを大きめに切り分け、大きな口に押し込み、それをさらにワインで流し込む。その喉元は、太くそれでいて無駄なくすっきりと筋張っている。こくり、と喉元が上下に動くのをスローモーションのように見守った。
次の肉の塊が口元に運ばれ、今度は白く尖った歯が肉を噛んでフォークから剥ぎ取っていく。もぐもぐと頬を動かし、少し硬そうに見えた肉も難なく噛み千切って、咀嚼して、味わっている。
その口元をぼんやりと眺めていた。濡れて見える唇の端に垂れる肉汁を赤い舌がちらとのぞき舐めとった。
「食べてやろうか?」
「……えっ」
はっと現実に引き戻されると、軽く口の端を上げた、あの人を喰ったようなーーこれは比喩だけれどーー笑みでこちらを見ているアルと目が合った。
「肉、全部食べられないんだろう」
あごで指し示された先には皿の上でまだ半分ばかり残るルシオのステーキに向けられていた。
なんだ、肉のことか。わずかに肩を落とすと、今度はなぜだか苛立ちが込み上げてくる。
自分の分はもう食べ終わったじゃないか。なんで肉ばかり食べたがるんだ。
「これは僕のだ。もっと食べろって言ったのはお前だろう」
慌てて同じように肉を切り分けて口に運ぶけれど、やはり少し硬くなかなか思うように飲み込めない。仕方なく大きな塊をむりやり飲み込んだ。
食事を終えようかという頃、客足の落ち着いた店内で忙しそうに片付けていた女性がこちらにやって来た。名前をカティヤというそうだ。パートナーのハンスは厨房で料理長をしている。この食堂兼宿は、夫婦とまだ小さい息子のユリウスのお手伝いで成り立っていた。
「満足できたかい?」
カティヤが何枚も皿を持ったまま話しかけてきた。
「ああ、美味かったよ。ハンスにも伝えておいてくれ」
アルがご機嫌で応えるけれど、ルシオは口を開けば先ほどようやく飲み下した肉が出てきそうで、水を飲みながら頷くだけにとどめた。
「この街はずいぶんと賑わっているんだな。見たところ農作物は豊穣にとはいかないと思うが」
国の中でもおそらく最北に位置する街のはずで、北から西にかけて険しい山脈に囲まれている。夏は短く、冬はこの通り分厚い雪に覆われる。農作物が豊富に育ったり、貿易が盛んだったりするわけでもなさそうな街は、裕福とはいかないだろう。
この国では納税のシステムがあり、そこそこ大きな街にはそれぞれその地を治める領主や貴族が配置されていて、民たちは納税に上乗せして上納金を要求されている。その領主たちの裁量と手腕によっては、民たちが貧困にあえぎ町が一つ潰れかねない。
「この街の領主殿が上手くやっているのか?」
「そんなことあるはずがないよ。この街がやっていけるのは鉱山のおかげさ」
からからと笑うカティヤの後ろから、小さな手がスカートにしがみ付く。
「この間、また新しい石が見つかったんだよ。ねぇ? かあちゃん」
ユリウスが誇らしそうに胸を張る。
「とうちゃんも明日から手伝いに行くんだ」
「そうなのか。ハンスはシェフじゃなかったのか」
ようやく口を開く余裕が出たルシオが、子どもの目線に合わせて少し腰を低くする。
「とうちゃんは“こうふ”もしてるんだ」
「夏のシーズンは旅人も、街の外からの鉱夫もたくさん来るだろう? だから、食堂や宿だけでも大忙しなんだけどねぇ。冬の間はどうしても街の外から来る人間なんて少ないのさ。だから、男たちはみんな冬の間は鉱山に入るんだよ」
ハンスも、明日は朝早くから鉱山に向かうらしい。
「ねぇ、おにいちゃんたち、一緒に鉱山を見に行こうよ」
「鉱山か……どこにあるんだ」
「新しくほってる場所は、林をぬけて橋をわたったところだよ。ルドルフのソリに乗って行くんだよ!」
ルドルフというのは、この家族の飼育するトナカイだ。食堂に着いた直後に、ユリウスに手を引かれ、裏庭に造られた簡素な小屋へ案内された。そこでルシオはルドルフの鼻を撫でたり、飼い葉を手ずから食べさせる許しをユリウスとルドルフに得た。
ユリウスはすっかりルシオに懐き、ルシオもユリウスと一緒にソリに乗る約束をしたりと意気投合していた。それを後ろから眺めていたアルは、ずっと仏頂面で「俺の方が速い」と張り合っていた。
「こら、ユーリ、危ないから子どもは近付いちゃだめって言っただろ?」
「だから、おにいちゃんたちと行くもん」
「わがまま言ってお客さんを困らせるんじゃないよ、全く。ほら、ルドルフにごはんをあげる仕事は終わったのかい?」
「あ! まだだった!」
ユリウスは、ぱっと身を翻し店の玄関扉を勢いよく開けて出て行った。
「騒がしくしてごめんなさいねぇ。お部屋の支度はできてますから、ゆっくりしていってくださいね」
カティヤの片付けが少しでもはかどるように、二人は早々と二階の部屋に戻ることにした。
一部屋に二人で入る。あんなに二人で密着して眠れたのだからもう部屋など一緒でも構わないと、ルシオの方から言い出した。アルは驚いたようだったけれど特に反対はしなかったので、どちらでも構わないのだろう。
「さて、そろそろこの街に来た目的を聞かせてもらおうか?」
アルが椅子に無造作にかけたローブをルシオが外套掛けにかける。
「領主に会うつもりだ。ここの領主は……、何度か会ったことがある」
それがどういうことかは、アルには説明したくない。できれば知って欲しくもないけれど、察しの良い男はきっと理解しているのだろう。まともに顔を見ることもできなかったので、ちらりと盗み見ると、至って普通の穏やかな瞳と視線がぶつかった。
「会ってどうする」
「……目的がある」
言わなくては終われないような無言の圧力を感じる。はあ、とため息をついて、アルの顔色を伺いながら話し始めた。
「教団はこの国、今や国外にも勢力を伸ばそうとしているだろう。大きな力というものには必ず反発も出る。僕の塔に来る連中も、今はまだごまかされてはいるけれど、財力や情報を教団に吸い上げられているんだ、良い気はしていない」
「反対勢力があるってことか」
「今はまだ表立って火の手が上がっているわけじゃない。でも、火種は確実にくすぶっている」
「それを着火させようってのか」
「……そうすれば大きな火になる」
じっとルシオを捕らえる瞳に耐えられず、思わず胸の石を握って目を逸らした。
国政にまで根を張る教団に反発する勢力を焚きつけるということは、国の内乱のきっかけにまで発展するかもしれない。ルシオは危うい均衡で成り立っている今にも溢れそうな水面に波紋を広げる石になろうというのだ。 アルの口から「独りでやれ、俺は降りる」という言葉が出るんじゃないかと思うと緊張で手が微かに震えている。
どんなに反対されても、たしなめられても、止めるわけにはいかない。何もかも忘れて生きていくことはできない。
まさか自分で教団の壊滅までを目論んでいるわけではないけれど、教団が裏でどんなことをやっているかは全て白日の下に晒してやろうと思っていた。そのうえで、ルシオに二度と関わらないという確約が得たかった。
それを得なければ、ルシオはずっと悪夢の中を漂っているような心地で生きて行かなければならない。
ずっと独りで抗ってきた。独りで戦ってきたのだ。アルに頼らなくても独りでなんとかしてみせる。むしろ、独りのほうが自分は強く在れる。そう思っていたのに、今は独りになることがひどく怖い。
何度も考えた。アルの言うように、二人でどこかで静かに暮らせたらどんなにいいだろう。
いつか、二人で暮らすことを選ばなかったことを後悔するときが来るだろうか。それとも、アルを巻き込んで失ったときに初めて自分の愚かさに気付くだろうか。
「……アルは、やめてもいい。どこか湖の側で静かに暮らせばいい。お前を巻き込みたくない」
それまでじっと無表情でルシオを見ていたアルが、はっ、と声を上げた。
「なにを言い出すかと思えば、まだ諦めてなかったのか」
「……」
がたんと椅子から乱暴に立ち上がり、アルはルシオが握りこんでいる胸元に人差し指を突きつけた。
「君は俺のものだ。俺以外の者に壊されるなんて許さない。いいか、ルカ。誓って、もう二度と君を独りにはしない。たとえ君が嫌だと言ってもだ」
言い終わると、にやりと口の端を上げる。
「諦めろ、俺は一途なんだ。逃がしてはやれんからなぁ」
ルシオがはあ、と小さく息をつく。それは呆れでも諦めでもなく、胸がいっぱいになりきゅうと締め付けられて、安堵と喜びが身体中を駆け巡ったからだった。呼吸を繰り返して、なんとかこの息苦しさを逃がそうとする。
さきほどの食堂でアルの食事を眺めていたとき、ルシオの胸は激しく高鳴っていた。
羨ましい。そう思ってしまった。
食べられたい。アルに食べられればずっと一緒に居られる。
今も、すぐ目の前に突きつけられた指を見つめてしまう。この手で、あの唇で、あの舌で。触れられたい、噛まれて舐められて味を確かめられて、一つになりたい、一部になりたい、この美しい彼を形作る血肉となりたい。そうすればずっと一緒に居られる。
人に触れたいと思うのも、何かを乞うのも、そして誰かを危険に晒してまでも一緒に居たいと願うのも、何もかもがルシオにとって初めての感情だった。
けれど、それをアルに伝えるわけにはいかない。伝えたら、アルはきっとルシオの元を去れなくなるだろう。ルシオもアルを離せなくなるかもしれない。アルには生きて欲しい。たとえこの先ルシオがどうなったとしても、アルにはそんなことは忘れて、可愛らしい妻でも娶って子どもでもつくって湖の側で静かに穏やかに暮らして欲しい。
「……好きにすればいい」
こんな風にしか言えないけれど、アルの幸せを誰より祈ろう。そうすれば少しは神子になった甲斐もあるというものだ。
「問題は、どうやって神子だということを周囲に知られないように領主に会うか、だ」
「会いに行けばいいじゃないか。顔見知りなんだろう」
「突然会いに行って、あなたの知り合いだから自分の話を聞いてくれと言うのか。教団の情報を持っているから盾突いてみませんか、と? 領主や貴族だって教団のお陰で甘い汁を吸っているんだ、僕一人がなんの策もなく会いに行ったところでそれを手放すわけはない」
「甘い汁とはなんだ?」
「……教団が受けた民衆からの寄付金などが折に触れて領主や貴族に流れている。だからこの国では、この教団の神とアルカディアという楽園への回帰しか認められていないんだ。ほかの宗教は潰される。人々の信仰心というものは、どんなに圧政を強いてもそれに耐える民衆を作り上げてしまう。教団も国も、それを自分たちでコントロールしているんだ」
そのために神子などという偶像が創り上げられ、そしてその神子を領主たちにあてがうことで、教団もまた領主や貴族たちの弱みを握っている。
神子を一晩買うための金品も教団に流れるし、神子が寝物語に得た情報で教団は半ば脅しともとれる密約を交わしていたりもする。なかには、本当に神子と契ることで街や領地の繁栄を得ていると思っている“信心深い”領主もいる。
この街の領主は確か、教団に唯々諾々と従うほど信心深くも愚かでもなかった。どちらかといえば、教団が自治区に関与するのを快く思ってはおらず、塔での神事に金品を謙譲するのを渋っていたはずだ。けれど、ルシオを気に入っており、ルシオのために大金を出して何度か権利を勝ち取っていたようだ。教団はそういった競争心やプライドを刺激することも、ことさらに上手かった。
「僕が得た情報だと、領主は国に上げる税をごまかしている。どうやってごまかしているのかはわからなかったけれど、教団はその秘密を掴もうとしていたから、僕に聞きだせと言っていた」
領主は結局その秘密を自身では喋らなかったし、周囲の街や爵位で足の引っ張り合いをしている貴族連中も情報を持ってはいなかった。
「それさえ掴めれば、領主を説き伏せる糸口にもなりそうなんだが……」
翌朝も空には太陽が顔を出し、屋根の上の積雪がどかり、どかりと重たそうに落ちる音があちらこちらでしていた。
身支度を整えたルシオは、ちらりと横のベッドに眠る男の寝顔を見る。久しぶりにベッドで落ち着いて眠れたこともあるけれど、まだ大きな寝息を立てている。
鼻でもつまんで起こしてやろうかと、そっと近付いてみる。
「……」
起きないんだな。あんなに気配や危険に敏感な男が、ルシオには鼻をつままれる距離でも爆睡している。むずむずと嬉しいような照れくさいような気持ちにさせる。まるで大きな力を持った肉食獣が自分にだけ気を許している、そんなちょっとした優越感が心をくすぐる。
そっと指を伸ばして吸い込まれるように掠めたのは、鼻ではなく唇だった。
「……んがっ」
次の瞬間には突然鼻をつままれたアルが気の抜けた声を出していた。
「起きろ。朝食に行くぞ」
恥ずかしげもなく大きなあくびをしているアルを横目にバゲットを頬張ったときだった。にわかに店の外が騒がしくなり、凶事を報せる叫び声が聞こえた。
「崩落だーーーっ!」「橋向こうの坑道で崩落が起きた!」「被害は!?」「まだわからん!」「男は救出チームを組む!」「何人か閉じ込められてる!」
不穏な空気が一層濃くなり、聞こえてくる情報もより詳しく重大さが増してくる。
店の中の人々も、手を止め、ある者は立ち上がり扉の外まで見に行っていた。奥のキッチンからカティヤが出てきたけれど、その顔は青ざめて手も震えている。ルシオが駆け寄り支えた瞬間、膝から力が抜け座り込んでしまった。
「ハンスはもう坑道に?」
意識してなるべく落ち着いた声音で尋ねると、カティヤは呆然と首を振る。ルシオのローブは手が白くなるほど握り締められていて、支えて椅子に移動させようとしても足元に力が入らないようだった。
アルが近寄ってきて、カティヤの側に片膝をつく。
「ユーリはどこだ? 学校か?」
「……ユーリ? ユーリならルドルフにごはんをあげるって、学校にはまだ早い……ユーリ、ユーリはどこ……? ユーリ!」
「アル! ルドルフが居るか見てきてくれ!」
無言で裏庭の方へ向かったアルが大股で帰って来ると、いつになく厳しい顔でこう言った。
「ルドルフも居ない。ソリでどこかへ遊びに行くと言っていたか?」
まさか……。ルシオは青ざめてアルを見上げた。
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