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第10話 つかの間のふたり ※R‐18
目の前に広がるのは地面の窪みからコポコポと湧き出ている白く濁った泉だった。山の壁面に段を作った岩場の中に点々と大小様々に泉が湧いていて、溢れた分は下へ下へと段から段へ流れている。周囲の雪の中で凍りもせず、冷めてしまうこともなく、溢れた水で岩肌はつるりと滑らかに削れている。
濁っているといっても泥水の類ではない。おそらく水に含まれる成分のせいで翡翠のような泉の緑が乳白色に変色しているのだ。さらに、うっすらと湯気が立ち込め、そこだけが温かい空気に包まれている。
「温泉だ」
「おんせ、ん……? 泉じゃないのか」
「初めてか。この辺りは温泉が出る。鉱山になるような場所は、だいたい採掘している間に温泉が出たりするから近くにはあるだろうと思っていた」
ルシオは屈んで、恐る恐る泉に手をつけてみた。
「あたたかい……!」
「熱くはないか? 時々熱湯が湧いていたり、とても入れん温度の泉もあるから気を付けろよ」
「入るのか」
驚くルシオを頭の先から爪先まで見て顔をしかめた。
「髪も服もびしょびしょだし、泥だらけだ。そのままだと風邪をひく。身体も無理をしただろう」
入るのか、このあたたかい泉に。
ルシオは今まで頭からぬるま湯を被ったり、濡らした布で身体を拭くようなことしかしたことがない。確かに、王都では湯を溜める容器が設置してある部屋があったけれど、いまいち使い道がわからなかった。
泉に入るということは、服は脱がなくてはならないのだろうか。
どこまで? 下着を着けたままで入ると濡れてしまうから、宿に帰るまでに下着が凍り付いてしまう。それなら、全て脱いで入るのか。全て脱ぐということは、裸になるということだ。裸に。こんな屋外で。いや、そもそも……。
急速に心臓が激しく脈打ち始めるのを感じた。隣に立つアルに意識が集まる。
裸になる? アルの前で? アルも? アルも裸になるのか? 二人で、裸に……。
ちらりと横を見上げるとアルもこちらを見ていて、二人でなんとなく無言のまましばらく目を合わせた。アルが小さく苦笑してくるりと背を向ける。
「先に入れ。俺は少し辺りを見回ってこよう」
「え、」
「そんなに警戒しなくとも、無理やり取って食ったりはしないさ」
とっさに、アルのローブを掴んでいた。
「警戒なんてしていない。い、一緒に入ればいいだろう!」
思わず大きな声で出た言葉は、ルシオ自身も今まででは考えられないような提案だった。
アルは驚きに目を見開きぱちくりとさせている。顔に急激に熱が集まる。
一緒に入ろうと大胆な誘いをしたからではない。全く考えなかったからだ。アルに一人ずつ入ると言われるまで、ルシオは“別々に入るという可能性を全く考えていなかった”。
ごく自然に、当たり前のように、二人で裸になることを想像していた自分が、ひどく恥ずかしかった。
「順番に入ったりしていると先に出て待つ方が凍えてしまうだろう」
自分自身に言い訳をするように、早口でいかにも合理的な提案であることを告げる。
「……まあ、」
口元を押さえながらルシオの方へ戻って来ると、自分のローブに手をかけた。
「じゃあお許しが出たってことで」
布ずれの音がして、あっという間に足元に脱ぎ捨てられていく服を見つめながら、顔も目線も上げられずルシオは固まった。
すぐ横では、ちゃぷんと静かな音を立てながら泉に足を入れるアルの、しっかりと筋肉のついた足だとか、引き締まった腰回りだとか、広くてなだらかな背中が、目に焼き付く。均整の取れた、彫刻のようにたくましい身体つきだった。けれど、すぐに乳白色の湯の中にその身体を沈めて隠してしまった。
一緒に入ればいいと力説したのだから、こうしてじっと固まっているわけにはいかない。あの湯の中に入ってしまえば隠せるのだということがわかったのだから、手早く脱いで早く入ってしまえばいい。そう思って意を決してローブやサイズの大きな上着を脱ぎ捨て、湿ったままのシャツのボタンを外していく。
冷たい外気と風に当たって、凍えるように寒い。水気を吸った布は、身体に沿って張り付いている。寒さに小刻みに震える身体と、粟立っていく肌。
ふと泉に目を向けると、じっとこちらを見つめるアルの瞳とぶつかった。とたんに、電流を流されたように脳髄から全身の神経へとしびれていく。ボタンを外している手元をずっと見ているはずなのだけれど、アルがこちらを見ていることはわかる。
視線を感じるからか、寒さでか、ルシオの胸の先がつんと固くなっていた。それがたまらなく恥ずかしい。アルの視線を避けるようにわずかに背を向けてシャツを剥ぎ取る。その勢いのままズボンも下着ごと下ろし、背を向けたまま泉にゆっくりと片足を浸した。
濁っているとはいっても底はなんとか確認できるから、決して深くはないこともわかっている。けれど、水に身体を浸すこと自体が初めてのルシオにはなにもかもが緊張の一瞬で、とうに頭は働かなくなっている。
「そう小さな尻をこちらに向けられると、食べてくれと言われているような気になるな」
アルの呟きに思わず勢いよく振り向いてしまい、身体も湯の中に隠そうと慌てたからか、滑らかに削られた石で足元が滑った。
「う、わぁぁっ!」
ばしゃん、と大きな音を立ててルシオの頭が沈む。視界が白く染まり何も見えない。思い切り湯が口の中に流れ込んできて、肺が悲鳴をあげる。もがいて伸ばした腕を捕まれ、背中に腕を回され、軽々と湯の上へと引き上げられた。
「げほ、げほっ、飲んだ……」
「大丈夫か。悪かったな、滑るから気を付けろと言うのを忘れていた」
「だいじょう……」
ルシオは鼻や口を拭っていた手もそのままに、再び固まった。
二の腕を捕まれ、正面から腰に手を回されぎゅっと抱き寄せられている。アルの厚い胸と固い腹とが、自分の薄い胸と腹に密着している。後ろに回った大きな手は腰を支えている。湯で温まっていたからかアルの肌も大きな手も熱くて、肌を伝い落ちる雫の一粒一粒を目で追うといらぬところまで視界に入った。
「う、わぁぁっ!」
慌てて離れようとアルの身体を押し返すけれどびくともしない。しっかりと腰を密着させられたまま、全く離れる気配がなかった。
「アル! 離せ! もう大丈夫だから!」
恥ずかしい。なにもかもが恥ずかしくて、アルに当たり散らすよりほかに気持ちを紛らわせる方法がなかった。けれど。
「触るな、とは言わないんだな」
「……え」
見上げると切れ長の目の中の小さな黒い瞳孔が、その視線が、蜜のように甘く熱に溶かされている。吸い込まれるように目を離せなくなり、恥ずかしさも忘れてじっと見つめ返してしまう。額に張り付いたルシオの濡羽色の前髪を長い人差し指がはらうと、その感触が心地良かった。
触れて欲しい。もっと、長く、たくさん触れていて欲しい。
「……アルなら、別に……。あ、あのときは、驚いただけで……、い、嫌なわけじゃない。今、も、さ、触っても……いい」
塔を出た翌朝の宿で、助けてくれたアルの手を振り払った。けれど、その時よりもずっと前から、本当はアルに触れられるのは気持ちよかった。
触れ合うことを気持ちいいと思ってしまえば、過去に傷付いた出来事までも許容してしまう気がしていた。アルに触れられることが気持ちいいと思うことで、傷付いた出来事は過去のことだと、大したことのない出来事だったのだと自分で思ってしまうことが怖い。拒んでいたのに、吐き気がするほど嫌だったのに、本当はこんな風に気持ちよかったのではなかったか、と記憶を書き換えてしまうことが怖い。
全然大丈夫ではなくて、今も傷口は血を流し続けていて、ただ、アルの手だけはその傷口を塞いでくれるというだけなのに。
「ほかの人間に触られるのは、気持ち悪いし、怖い。でも、アルなら、平気だった。安心するし、気持ち、いいと……思う。じ、自分でもそんなことおかしいと思うけど、でも、やっぱり全然違う」
「おかしくはない。当たり前のことだ。触れ合うという行為の問題でも、身体の生理的な反応の問題でもない。
君自身が許しているかどうか、だけなんだからな」
アルの熱い手の平で頬を包まれると、それだけでとろけそうな気持ちになって、無意識にその手に自分から顔をすり寄せてしまう。
「俺が、触れることを許してくれるか」
許しているかどうかだけが問題なら、もうとっくに、ルシオはアルに触れられることを許していた。それどころか、もう少しだけ、さっきよりたくさん触れて欲しいと思っている。
「す、“少し”だけなら……」
ふ、とアルが笑った。
「……“少し”だな、了解した。怖くなったら言え」
「アル、」
気持ち良さと、恥ずかしさと、嬉しさと、甘えたい気持ちと、ほんの少しの寂しさがない交ぜになって、自分がなにをどうして欲しいのかもわからない。
ただ、目の前の男を求めていることだけは確かで、それをどう伝えればいいのかもわからなくて、ルシオは泣きそうになった。
アルの大きな手が頭の後頭部を支えると、引き寄せられた。
「ん、……っ」
近くで見るとやはりきれいな顔だと思ったときには、唇が重なっていた。アルの唇でルシオのそれも押し開かれ、そこから熱い舌が潜り込んでくる。ぬるりと生き物みたいに動いて、腔内を、ルシオの口全部を確かめるように舐めまわす。
目を閉じて、鼻からめいっぱいアルの匂いを吸い込んで、舌に集中する。舌の奥と上顎が、特に気持ちいい。混ざりあう唾液が、甘くて驚く。頭がぼんやりとして、真っ白で、なにも考えられないのに、舌だけは勝手にアルに絡みついていく。
「ん……ふ、ぁ……あ」
何度も角度を変える度にわずかに離れる唇が寂しい。ずっと離れないでこうしていて欲しい。永遠にこうしていたい。
それなのに、ルシオの舌を吸いながら、アルが離れて行ってしまった。離れようと胸を押しやっていた力は完全に抜けて、今やその胸板に手を添えているだけの形だ。その手を掴まれて、指先を確認される。
「凍傷になりかけてる」
「あ、え、アルっ!?」
痛みも忘れかけていた指先に口づけをされる。そして、そのまま人差し指と中指を熱い口に含まれた。舌が指先をじっくりと舐めまわす。
「痛っ、あ、なに、」
爪が剥がれかけていた指先に痛みが走ったけれど、徐々に同じ体温に溶けて腔内のやわらかさと唾液のぬめりでじんじんとしたしびれ程度になった。
アルの舌は、指先を舐め終わると、指全体を口に含み、滑らせるようにゆっくりと出し入れさせられる。
「ん……っ」
気持ちいい。舌で指を舐められているだけなのに、頭がぼうっとして声が出てしまう。
昨日見た、ステーキを頬張る口元を思い出して身震いする。赤い腔内、白くて尖った歯、柔らかそうな舌。食べて欲しいと思った自分のことも。その舌が、今はルシオの指を舐めしゃぶっている。
「あ、アル、もういい。離せ」
これ以上舐められていたらおかしくなってしまう。
それに、なんだか、寂しい。指ばかりに夢中になってないで、こちらを見て欲しい。指だけじゃ嫌だ。アルがすぼめた口からずるりと指を抜く感触が、腹の中を重たくさせる。
もう一度、キスして欲しい。そう思ってアルの目を見つめるけれど、わかっているはずなのに、アルはなかなかくれない。
「とりあえず、湯に入って温まれ」
このままもっと触れてもらえると思っていたのに、湯の中に肩口まで押し込められた。向かい合うようにアルと湯に浸かると、ほっとして、肩や背中から力が抜けて、本当に身体が芯からほぐれていくのがわかった。
すると、今度は足首を掴まれて上に持ち上げられ、ルシオは危うくまた湯の中に沈むところだった。
「アル!」
「足は、大丈夫そうだな」
温かい湯の中で、足首や足の裏を柔らかく揉まれて確かめられる。
「んっ……」
痛くは、ない。けれど、アルの手が足首からふくらはぎ、膝の裏へと徐々に上がって来るにつれて、妙な気分になる。
「あ……、いっ、」
太腿まで湯から出されてその内側に吸い付くようにキスをされる。ようやく口が離れていくと、赤く小さな痕が付いていた。
「まだ大丈夫か?」
「え……?」
予想外な触れ方をされ過ぎて頭が追い付いていないルシオは、ぼんやりとアルを見返す。
「こっちへ」
解放された足の代わりに腕を掴まれると、優しく引っ張られて気が付いた時にはアルの胸元に顔を埋めていた。
あぐらをかいたアルの膝の上に乗り上げた形になっていて、慌てて降りようとしても、さらに腰を引き寄せられて余計に密着する。湯の中だから身体は軽く、抱えているアルにも決して負担にはならないだろうけれど、ルシオとしてはさっきよりもさらに全身が密着して恥ずかしい。
「あ、アル……っ、ちょ、っと」
「嫌か?」
ずるい。普段は人を食ったような顔で笑っているくせに、こういう時ばかり切に請うような瞳でじっと見つめられると、抗議することもできず顔を赤くして黙るしかない。
「して欲しいことはあるか?」
して欲しいこと。そんなことを聞かれたのは初めてで、思わず顔を上げた。
アルの瞳は優しくて、背中に置かれた手から伝わって来る熱も真剣で、ルシオを意思のある人間だと伝えてくれている。
触れられることに許可を出したのも、自分がして欲しいことを伝えるのも初めての行為だ。そして、そういうことができるのは、相手がちゃんと受け取ってくれるという信頼があってのことなのだと気が付いた。
きっとアルなら、ルシオがなにを言っても受け止めてくれる。嫌なら嫌と、こうして欲しいという希望があればこうして欲しいと、伝えられる。
「……もっと、」
震える声で呟いた言葉に、アルが耳を澄ませてくれる。抱きしめて欲しい。離さないで欲しい。ただ体温を伝えて欲しい。そして、愛して欲しい。自分が想っている十分の一でいいから気持ちを返して欲しい。それが叶わないのなら、食べて欲しい。
「……キスがしたい」
直後に強く抱きしめ直され、唇が塞がれる。唇を柔らかく食まれ、思わず開けた隙間から舌が潜り込んできた。
首に腕を回して、縋りついて、必死で舌を絡める。アルの尖った歯が舌に当たると、ぞくりと背筋が震える。尾てい骨からなにかがせり上がって、頭のてっぺんで弾ける。
けれど腰の奥で次々となにかが生まれてはぐるぐると渦を巻いて、じっとしていられなくなって身じろぎすると、尻の下に固いものが当たった。
ぼんやりとした頭でも、それがなにかは体験上嫌というほど知っている。ひゅっと喉が引くつき、思わず身体を強張らせて唇を離してしまった。
「愛しいものが腕の中で身を委ねてくれているんだ、当然こうなる」
一瞬で頬に熱が集まる。焦るわけでも弁解するわけでもなく、堂々と宣言されると、そうか本来は当たり前の営みなのだと妙にすんなり納得してしまった。
アルが自分の身体に興奮している。そう思った瞬間、自分の中心が熱くもたげていることにも気が付いた。
乳白色の湯は浸かっている下半身を隠しているけれど、密着していればルシオの身体の変化にアルも気が付いているはずだ。
「どうする? 続きをするか?」
ようやく、いつものアルらしくにやりと笑うとルシオの顔に鼻先を摺り寄せる。こめかみやまぶたや頬や鼻に啄むようなキスを降らされ、笑い方に反して甘えるような仕草で簡単にルシオの思考を奪っていく。
「ん……、する」
自分から唇を寄せ、身体を密着させた。下半身の昂りもアルの固い腹と大きくなった熱に押し付けて、足をアルの腰に絡めた。
自分が許可を出したこと、自分の望みを聞き入れてもらえることが、今までにないほど安心感を与えてくれ、それが快感に直結している。
初めて自分の身を委ねたいと思い、相手の心も身体も欲しいと思った。
誰かの体温を気持ち悪いと思わない日が来るなんて。
誰かの手や唇に快感を感じる日が来るなんて。
アルの大きな手が、ルシオの熱に触れる。優しく握りこまれて腰が快感に震えた。
「!? ……あっ、ん、アル……っ!」
ルシオのものより倍ほど大きなアルの昂りに押し付けられ、一緒に握りこまれる。
「はっ、あ、あ、だめ、ある、やだ……あっ、ん!」
熱くて、触れているだけで気持ち良くて、上下に扱かれると溶けてしまいそうだった。湯はぬるいから余計にアルの熱だけがわかる。
気持ち良くて、このまま湯の中に溶けだしそうで、心もとなくてアルの首にしがみ付く。
「だめ? 嫌か?」
耳元で聞こえる、少し笑いを含んだ低くて甘い声すら快感に変わる。ルシオの耳やうなじに鼻先を摺り寄せて匂いを嗅いでキスをしたり甘噛みをしながら、アルがわずかに腰を揺らす。
「ふぁっ、んっ、あ、きもちい、ある、や、」
長い指が絶妙な力加減で扱いたり、張り出した部分の下をくるりとなぞったり、先端に爪を立てたりするとその度にルシオの腰も熱を持ったそのものも甘く震える。
「嫌なら止めるが?」
いじわるく囁かれても、すでに頭の中は気持ちいいということしかなく、言葉は思考を通っていない。
「どうして欲しい?」
「あっ、ん、ん、もっと、さわって……」
ぱちゃ、ぱちゃ、と湯が跳ねる。アルが手の動きを速めたのだ。
「ああ、いいな、俺もいきそうだ。可愛いな。ルカ……愛してる」
え、なんて言った。アルが、今。気持ちいい。熱い。アルの匂い好きだ。気持ちいい。好き。アル、なんて言ったか、あとでちゃんと聞かなくちゃ。
「あっ! っん、んん……!」
アルの手の中に吐き出して、湯の中でたんぱく質がゼリー状になってまとわりついた。そんなことを知ることもなく、ルシオは疲れ切っていた身体から、脱力感と共に意識を手放していた。
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