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第11話 立ち向かう時はいつも隣に

「これだ」  アルに背負われてゆっくりと岩山を下る道すがら、ローブから手の平サイズの鉱石を取り出して見せた。坑道に降り立ったときに、採掘されていた石を持ち出しておいたのだ。 「ふむ」  自分の手は背負ったルシオの脚を支えているから目の前に出されて焦点の合わない鉱石からちょっと顔を引いて眺める。 「これは、ニッケルが含まれてるな。火薬の材料だ」 「ニッケル? この辺りで採れたなんて聞いたことがない」 「だったら秘密にしていたんだろう」  その通りだなのだろう。つまり、領主は火薬の材料が採掘できることを内密にしていた。 「カティヤは最近採れるようになった石のおかげで町が栄えている、と言っていたな。これを、火薬を精製してどこかに流しているんじゃないか」 「そういえば、山向こうの隣国ではここ数年銃の改良に力を入れていたな。最近はどこの国も競い合うように銃を改良し大量生産しようとしているから、喉から手が出るほど火薬を欲しがる国はたくさんあるだろう」 「もしかすると、“これ”が鍵になるかもしれない」  ルシオは揺れる背の上で石を眺めて、小さなバッグに押し込んだ。  アルは険しい岩山の岩壁を、人間一人を背負って危うげなく下っていく。  目の前で赤い髪がさわさわと揺れていた。温泉の中で寝落ちてしまったルシオは、目が覚めるとアルに抱えられて山を下っていた。  降ろせと言ってみたところで、はいそうですかと降ろしてはくれない。  足もまだ痛かったし、残りわずかだった体力もさきほどの行為で使い果たしてしまっていたので、子どものように抱えられることよりはましだと背中に背負われることでお互いに妥協点とすることにしたのだ。  赤い髪に見え隠れするうなじに顔を埋める。さっきまで同じ湯に浸かっていたというのに、その首筋からは太陽の匂いがした。この国では貴重で、そしてルシオがとても焦がれている陽の光の匂いだ。短い春と夏の間に塔のてっぺんで何時間も空を眺めたときの、あの服に閉じ込めたあたたかな空気の匂い。  温泉の中で触れ合って、この匂いの中で溺れた。気持ちが良くて、嬉しくて、安心して、自分を全て委ねた。  アルに抱えられることは本当は嫌なわけではなかった。あの近さで顔を見上げることに耐えられなかっただけで、アルの体温とはくっついていたい。広くてあたたかい背中はちょうど良かった。  急いではいないからか、背負ったルシオへの負担を考えたからか、アルは跳んだり飛び降りたりすることなく、それでもトナカイよりずっと早くふもとの町へと帰ってきた。  無事に救助が済んだことはすでに町中に知れ渡っているようで、ケガ人も数人病院へ到着したようだ。町に入る手前でアルの背から降りて、二人でカティヤの店へと戻った。 「ああ! あんたたち! ありがとう、ありがとう……よく無事で……」  二人の顔を見た瞬間、カティヤは泣き崩れた。どうやらユリウスやハンスとも会えたようだ。 「ユーリは大丈夫だったか」 「ええ、ええ、さっき目も覚まして……本当にあなたたちのお陰です。治療に取り掛かれたのが早かったから助かったって、もっと時間が経っていたら子どもの体力の方がもたなかっただろうって」 「そうか……良かった」  控えめに微笑むルシオとカティヤは手を取り合って心から安堵した。  ハンスやほかの鉱夫たちも、閉じ込められていた者たちはすでに大半が治療を終え皆命に別状はないということだった。残念なことに、二人ほど崩れた岩盤の下敷きになり犠牲になった者がいたらしいけれど、あの規模の事故にしては被害が最小限で抑えられたと言えた。  裏庭に出て、簡素な小屋に繋がれているルドルフの鼻を撫でる。 「お前の小さな友人は無事だそうだ。すぐに帰って来られるだろう、良かったな」  ブルル、フン、と鼻息で返され、再びのんびりと飼い葉桶に顔を突っ込むトナカイも、どことなく機嫌が良さそうだ。 「ルカ」  アルがそっと後ろに付いたかと思うと、静かに、と人差し指を立てた。一瞬にして緊張が走り、気配を殺して耳を澄ます。  どうやら表の食堂の方から、高圧的な男たち数人とカティヤが言い争っている声が聞こえる。 「そんな人は居ないよ。こっちは主人と子どもが巻き添え食ってケガしたんだ。一言詫びを入れるのが先だろうさ」 「そうだ、そうだ! 救助に人手も出さねぇで、なにが神子を出せだ、偉そうに!」 「我々にそんな口の利き方をしていいと思っているのか。領主様の使いだぞ!」 「だからどうしたってんだい。あんたたちがうちの主人と息子を助けてくれたっていうのかい」 「……その大事な主人と子どもが帰ってくる前にお前が投獄の身となるぞ」 「なんだと! カティヤがなにしたってんだ!」 「横暴だ!」  客として来ていた町の者たちも一緒になって誰かと口論を始めたらしい。相手は領主の使いだと名乗っている。 「要求しているのは僕の身柄、だな?」  アルの方が耳が良い、一部始終を聞いていたはずだ。 「……だったらどうする?」 「ちょうど良い。お招きに預かろう」 「……言うと思ったよ」  わざとらしく顔に手を当て項垂れるアルを尻目に、ルシオは店の中へと戻った。 「ようやくご領主様のお出ましか」 「お客さん! お客さんには関係のないことだよ、お部屋へ早く」  カティヤが慌てて男たちの目線から隠すようにルシオの前へ出る。 「大丈夫だ、カティヤ。店に迷惑をかけてすまない」  ためらって制止するカティヤに微笑んで、ルシオは男たちの前へ出た。すぐ後ろには守るようにぴたりとアルがくっついてきている。 「大声で女性を脅しつけていったい何事だ」 「黒髪に黒い瞳の青年……、お前が神子のルシオか?」  代表格なのだろう男が不躾な視線でルシオの頭から爪先までをなぞる。 「そうだが」 「領主様がお会いしたいと申されている。ご同行願おう」  一つ頷いて領主の使いを名乗る男のあとについて行こうとすると、訝し気な目線で後ろを見咎められた。 「彼は?」 「彼は僕の、……護衛だ。一緒に行く」  一瞬渋い顔をされたけれど、とにかく連れて行くことを優先事項としたのか男たちはなにも言わなかった。  着いたのは、街を縦断する大通りの一番奥に位置する屋敷だった。  鉱山で発展した山あいの領主の屋敷としては、いささか不似合いな豪奢な造りだった。  招き入れられた広い部屋でシルク張りのソファに座って待っていると、意思に反して身体が小刻みに震える。  領主はどうしたってルシオと対等に話を聞く気はないだろうから、せめて気付かれないように虚勢を張らなければと思う。胸元の石を服の上から握り締めて、深く息を吐いた。  ルシオにとっては顔も見たくないような関係性の相手だ。神事でのお役目で、領主は何度かルシオを抱いていると思っている。石で眠らされていたとはいえ、夢の中ではルシオをどのように扱ったか、想像したくもない。  けれど、実際にはなにも関係していないことを知っているのはルシオだけで、領主本人も、またあの神事の内容を知っている人間全てが、ルシオは領主に抱かれていると思っている。  使いの男たちの目線が「神子」などと一応は慇懃な態度をとっていても、どこか不躾で高慢なのはルシオたち神子が本当はどんなことをして金銭を集めているかを知っているからだろう。その主である領主がどういった認識を持っているかは、推して知るべしだ。  そういった態度も視線も慣れたつもりではいたけれど、実際に自分が力づくで押さえつけられた記憶のある相手と面と向かって話をするというのは、嫌悪感を拭えない。  なぜか自分が非力で小さな存在だという気がしてしまう。下等で、格下で、弱く、惨めな存在。相手のことは強く、大きく、格上で敵わない存在だと、そう錯覚してしまう。  恐怖と不安と混乱に飲まれそうになる。  ぎゅっと、ルシオの握り込んだ手を上から大きな手が包んだ。  思わず隣を見上げると、燃えるようなアルの瞳がこちらを見ていた。強い視線が、ルシオの気持ちを奮い立たせた。  にやり、と人を食ったように口の端を上げて言う。 「怒れ。君は強い。この俺の雇い主なんだろう。俺は、強く美しいと俺が認めた者としか契約しない」  どくん、と心臓が動き出した。動いて血を巡らせ、身体の隅々にまで熱が通った気がした。  腹の底から湧き上がる怒りは、暗く淀んだ霧を晴らせる。汚れていると思っていたものが、炎に燃えて浄化されていくようだった。 「……ありがとう」 「お、素直じゃないか」 「……礼を欠くようでは雇い主失格だろう?」  ふ、と二人で小さく笑みをこぼした。  そんな余裕も、隣にアルが居てくれるからだ。握っていた手をほどいて上向きに変えると、アルの大きな手をそのまま握り返した。  アルの手はさらさらと水分が少なく、皮膚は少し固いけれど柔らかくて、指が長い。  そっぽを向いて窓の外を眺めているふりをして、アルの手の形をなぞり続けた。アルもアームレストに肘をついて退屈そうにあくびなんぞしているけれど、右手はルシオの好きにさせてくれていた。  ガチャリ。  扉が開いて、大きな腹を揺らしながら領主が入ってきた。後ろには、先ほどカティヤの店まで迎えに来た男が付き従っている。  領主はにやにやと下卑た笑みを隠そうともせず、ルシオを舐めるように見下ろし自分の口ひげを撫でつけた。 「お久しぶりですな、神子様」  ルシオたちの向かいのソファに座り、ふんぞり返る。 「最後にお会いしたのは、いつでしたかな。確か、昨年の秋の中庸の神事でしたか。 いや、あの時もお美しかったが、今はさらに磨きがかかっておられる。そのようにローブをしっかりと着こまれてはもったいない。神子様の肌は真珠のようですからなぁ」  ローブの上からでも全身を見られているようで、思わず下に着込んでいるジャケットの前をかき合わせた。  けれど、顔には出さない。腹の底や胸の奥に灯った温かさが、ルシオを守ってくれている。 「そうでしたね。昨年の秋。その頃、鉱山で新しい石が見つかったんですか。だから、あれほどの大金が用意できた」  ぴくりと領主の頬が動いたのが、口ひげのせいでよくわかる。ルシオは口角を上げて続けた。 「確か、その前の夏の神事にも僕に会いに来てくださいましたよね。最近、会いに来てくださらないのは新しい鉱物を隣国に売っていることが国にバレないようにするためですか」  神事で教団に差し出す金額は決まっていない。それぞれの領主や貴族たちはお互いに自分たちがどれくらいの金額を差し出すかを言わないので、相手の持つ財力を推し量り、自分たちの出す金額を決めなければならない。  そこにはある種のパワーゲームが発生し、教団はその全てを把握することになる。  もちろん、自分たちの本当の財力を隠すためにわざと多くを出さないという駆け引きをする場合も往々にしてある。 「何のことをおっしゃっているんだかわかりませんな。 神子様こそ、塔でこの国の守護を担い、祈りを捧げるというお役目を放棄して、なぜこんなところにおられるのか。このことを教団は知っておいでで?」 「そのことなんですが、僕は常々、教団が民から寄付と称して多額の金品を頂くことに疑問を感じていました。 確かに、僕のお役目は民のために祈り、神の加護を民に還元すること。けれど、それならば、なにもあれほどの金品を必要とはしないのではないかと……。 ご領主様はどう思われますか」  領主の顔からはいつの間にか笑みが消え、探るようにルシオの顔を見つめている。まるで、自分が心の中で毒づいていた不満を言い当てられたようだった。しかも、それを言い出したのが、教団に飼い慣らされた神子という年端も行かない青年だ。  以前、この青年を抱いたときは、従順で無知で愚かな、美しい飼い猫のようなものだという認識だった。  確かに男好きのする肌や身体に、この辺りでは珍しい黒髪や濡れたような黒い瞳は、手に入れたいと思わせた。手に入れたと思った一瞬の優越感も、抱いた時の恍惚と溺れるような快楽もこの世のものとは思えないほどだった。  けれど、今、その青年が塔を飛び出し口にする言葉は、なにを示しているのだろうか。あの時と同じように、盲目的に神に仕えようとする故の言動か。それとも、教団の新しい布教か。それならば、なにかしらの要求があるはずだ。いや、まずは鉱山のことについてどこまで知っているかを確かめなければならない。 「そうですな……、私どもの町も、神子様が御覧頂いた通り、危険な鉱山で採掘されるわずかな鉱物で成り立っている町でして、決して裕福とはいきません。 採掘が進んだ年はああして神子様に寄付することもできますが、冬になってしまうとこのように雪深い山に囲まれて陸の孤島となります。民から搾り取ることもできますまい。 どうしても教団への寄付は二の次になりますなぁ」  ルシオは悲しく儚げな表情で瞳を伏せた。 「僕も、鉱山での採掘がどんなに危険かを身を持って知りました」  やはり、ただの無邪気な青年だろう。勘ぐり過ぎたのかもしれない。領主は内心でほっと息をついた。 「それですよ、そのためにお招きしたんですがね。 神子様は此度の事故現場で、民たちの救助に奔走して頂いたと聞き及びましてな。気持ちばかりのお礼ということで、ぜひ夕食と一晩のもてなしをさせて頂きたい」  あわよくば、という下心を隠そうともせず欲を滲ませた目が向けられる。  ルシオは顔を上げた。 「それは楽しみだ。ご領主様直々の晩餐となるといっそう豪華なんでしょうね。 僕はずっと塔に居た世間知らずなのですが、ニッケルは近隣諸国に引く手あまただとか……。 民たちはそれと知らずに採掘していたようなので、自分たちが掘っている鉱物がいったいどれほどの価値を持っているものなのか、僕同様よくわかっていないのかもしれません。 ああ、もちろん、国への納税も今まで通り、教団への寄付に至ってはさらに減少していっているなどとは夢にも思っていないのでしょう」  領主の口ひげが盛大に動き、怒りに震える。 「なにか証拠があってそのようなことを?」 「いえ、証拠というほどのものはなにも。 ただ、坑道内部で手に入れた石を王に献上させて頂いたら、王はどう思われるのだろうか、と」  わざとらしく首を傾げてみせるルシオを領主が苦々しく睨みつける。 「……なにが目的だ?」 「大したことではありません。 ただ、ご領主には教団のことを“正しく”、王都にご報告して頂きたい。教団が集めている寄付という名目での献金、掌握している地方の貴族や領主たちの情報、中央の執政内部への影響力、それらを“ありのまま”、王の耳に入れてもらいたい。 ついでに一言、“民が信頼するのは神ではなく王であるべきだ”とでも言ってもらえれば十分」 「……神子様がクーデターでも起こそうという気か? それとも、王を傀儡にでもしようというのか?」 「まさか。そんな大それたことは考えていない。国に盾突く気もない。 ご領主にもメリットはあるはずだ。北の辺境の地での採掘など些末なことよりも、“正しい”方向へ王の目を向けることができる。進言することで忠誠を見せることもできるだろう」  お互いに探り合うような沈黙が訪れる。  正直なところ、こんなことで納得するわけもないだろうし、動いてくれるかどうかもわからなかった。  けれど、絶大な力を持つ教団を目障りだと思う人間も多く居る。そういった教団への潜在的な反発心の芽は、民よりもむしろ貴族や領主たちの間に存在すると、ルシオは考えていた。  教団からの利益の還元と、目障りであることを天秤にかけさせるには、ここの領主のように独自に大きな利益を得る手段を持っている方が良い。  口を開いたのは領主だった。 「……私にはもう一つ選択肢があるんだがね」  言うが早いか、領主の後ろに控えていた男が懐に手を入れるのを目の端で捕らえる。  ルシオの脳がそれを認識する前に、ルシオと領主たちの間を風が吹き抜けた。  まばたきを一つした後に視界に映ったのは、懐から出した銃を握る右手を捕まれ領主の頭へと突きつけた男と、その男の頭に別の銃を突きつけているアルの姿だった。どうやら、男の動きを見てとった途端、アルは目の前のテーブルを踏み台にして領主の頭上を飛び越え、領主の後ろの男の動きを封じたらしい。 「この選択肢は、もう使えないな」  人を喰ったような顔でにやりと不敵に笑う。  その時、部屋の外がにわかに騒がしくなった。さらなる増兵かと構えたけれど、声をかけてきたのは若い執事のようだった。慌てたようなノックのあと、領主からの返事がないのでその場で大きな声を上げた。 「お話し中失礼致します! 緊急のご用件とのことで、教団の使者の方々が無理やり屋敷に立ち入ってこられようとしておりまして……! 神子を引き渡せ、などと仰られていて……! どのように対応すればよろしいでしょうか、旦那様!」  ルシオは領主の顔を見る。銃を突きつけられたままで身動きもとれず、下手に口も開けない領主は、顔を赤くしたり青くしたりしていた。 「ご領主、僕は教団に戻ることはない。 今、この場でどちらを選択するか決めてもらおう」  ガチャリ、と領主の頭のすぐ後ろで撃鉄の音がする。玄関の方からは押し問答をしている数人の怒号が聞こえる。扉を激しくノックし続ける音がする。 「……わかった。おい! 教団の連中に、神子はここにはいないと伝えろ」 「……は、はい!」  アルが男の銃を取り上げ、自分の銃をしまう。解放された男はアルに掴まれていた腕をさすり、領主は小さく息をついた。 「せっかくご招待頂いたのに慌ただしくて申し訳ないが、僕たちはこれで失礼する」  ルシオはソファから立ち上がると、玄関へ向かう扉ではなく庭に面したテラスへと足を向けた。  その後を急ぐわけでもなくゆったりとアルが追う。  領主は素早く立ち上がり、近くのキャビネットに取り付いたかと思うとジュエリーボックスの中から銃を取り出してルシオの後ろ姿に狙いを定めた。  一度は自分の手中に収めたと思った美しい猫だ。それがどういうことか手を引っ搔いた挙句、外へ逃げ出そうとしている。目くじらを立てるような傷でもないのに、なぜか無性に許せなかった。  恥をかかされた。  このまま教団に引き渡す気もないが、少しばかり痛めつけて閉じ込めてしまえば、自分の手元で飼えるかもしれない。  けれど、その引き金を引く前に銃身は素手で掴まれていた。  ただの護衛だと名乗っていた男が、引き金の中に指を差し込み恐ろしい力で銃を抑え込んでいたから、銃はびくとも動かない。  薄く赤い光が護衛の男の全身を包んでいて炎に触れたように熱い。すぐ目の前に寄せられた顔は、燃え上がるような赤い髪が風もないのに舞い上がり、その瞳は爛々と黄金に輝き、瞳孔は縦に開いていた。 「あれは、野に放たれてこそ美しいのだ。傷つけることは許さん」  アルの異様な様子に気圧されて、領主は捕食者に睨まれた非力な小動物のようにがたがたと震えながら膝をつくしかなかった。 「アル」  すでにテラスに立っていたルシオが振り返り声をかけて、領主はようやく重圧から解放された。  髪も瞳も人間のそれと同じように戻してから、アルはルシオを追っていく。きっと、ルシオの側からはこの男の変貌は見えていなかっただろう。  二人が庭の奥へと姿を消してから、ようやく、玄関ホールの喧騒が近付いてきた。 「それでは、ここで」 「本当にありがとうございました。神子さま、またいつでも立ち寄ってくださいよ。おいしい肉と酒、用意して待ってますからね」 「おお、それはまたぜひとも来ないとなぁ」  ルシオの代わりに嬉々として応えたのは、隣のアルだった。  再び降り出した大きな牡丹雪がはらりはらりと落ちて来はじめた町のはずれで、ルシオたちは和やかな別れを迎えていた。 「おにいちゃん、今度はぜったいルドルフのソリにいっしょに乗ろうね」 「ああ。約束だ」  ユリウスはその小さな頭にまだ痛々しく包帯が巻かれている。けれど、どうしてもルシオたちを見送るのだと言って聞かなかったと、ユリウスを抱いたハンスが苦笑した。 「神子様たちのおっしゃった通り、鉱夫たちみんなで領主に見舞金や待遇の改善を直訴することになりました。 まさか、私たちが掘っていた新しい石がそんな高値で売れていたなんて、思いもしませんでしたよ。よく調査して証拠を集めます」 「上手くことが運ぶように祈っている」 「神子様に祈ってもらえたら神のご加護を受けたのも同然だ」  ハンスは笑って、片手を差し出した。ルシオは一瞬ためらったあと、その手を握り返した。

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