12 / 21
第12話 胸の中に渦巻く炎
深い雪に膝まで埋もれながら、森の中を分け入っていく。満足に動かない足で、それでも転げるようにして木々の間を走る。
はぁ、はぁ、と自分の呼吸の音がいやに大きく聞こえる。
早く、もっと早く、逃げなければ。
ダァーーン……!
頬のすぐ横を空気が切り裂いて、目の前の木に弾が埋まって幹が裂けた。思わず頭を抱えるように身を低くして木の向こう側に逃げ込んだ。
パンッーー。
弾道を辿って、振り返りざま撃ち返すけれど、当たった気配はしない。
はぁっ……、はぁ……っ。
手の中の銃を握り締めて目だけで辺りを伺ってみるけれど、相手も木に身を隠しながら近付いてきているのか、一人の姿も見えない。
降り続いている吹雪は視界を極端に遮っている。どこからあいつらが現れるかわからない。撃ち返したところで、この視界では当てるのは困難だろう。
とにかく、止まってはいけない。動き続けて、逃げ切らなければ。そう思って、走り出そうと一歩を踏み出したときだった。
「いたぞ!」
ダァーーン!
今度は左の斜め後ろから声が聞こえて、しまったと身を固くした。
けれど、銃弾はルシオの身体に傷をつけることはなかった。
おそるおそる顔を上げて声の方を見てみれば、そこには顔を掴まれて持ち上げられ宙に浮いた足をばたつかせる修道士と、片腕で男一人を持ち上げているアルの姿があった。
ルシオの身体から一気に力が抜ける。
「遅いっ!」
「すまんな、怖がられるもんだから見つけるのにちょいと手間取った」
そう言うアルのもう片方の腕には、ウサギとカモらしき鳥が一羽ずつ握られていた。どちらもすでに仕留められているようで、アルは片手に夕食と片手に修道士を雪の上に引き摺りながら近付いてくる。
「……アル、僕は人間は食べない。それは放してやれ」
「これくらい大きな獲物だと見つけやすいし、狩るのも簡単なんだがなぁ」
そう言うと意識のない修道士をまた目の高さまで持ち上げて、ぶらぶらと揺らすと小さく呻く声を確認して興味が失せたように放り投げた。
「ああ、少し向こうにも四、五人仕留めたから置いてきたぞ」
ありがとう、と頷いてアルからウサギとカモを受け取る。
「あまり大きな獲物を獲っても、食べきれないと動物も無駄死にだろう」
「俺は食べきるし、もし残ったとしても狼や熊が食べるだろう」
「狼や熊を引き付けてどうする。それに痕跡を残すと追手に余計な手がかりを与えるだけだ」
「狼や熊なら美味いけど、人間は不味いからなぁ」
冗談なのか本気なのか、アルは納得したように相槌を打っていた。
人間は不味いのか……。なぜかそこに引っかかりを覚え、軽くショックを受けている自分に内心首を傾げる。なんとなく、自分を拒絶されたような気がしてしまった。もやもやとする気持ちを見ないふりをして、森の中を歩く。
最北に位置した鉱山の町を出てから、荷馬車に乗せてもらったり、森の中をアルに抱えられて跳んだり走ったりしながら、今は東に向かっている。
町を出てすぐと、つい先ほどと、ここ三日ほどですでに二度も襲われている。森の中を進むのは本来危険だから誰も選ばないらしいけれど、追手から隠れやすいということと、森の中を好み、尚且つ雪深い森の中をなんの苦もなく進めるアルのお陰で、道なき道をゆく旅路だ。
木々の隙間を縫うようにして出て来たのは、小さくて簡素な山小屋だった。森の中には時折、夏の間に木こりや猟師が使う小屋が建てられていることがある。この小屋もそういった類のものだろう。
中には小さな暖炉と薪、簡易なテーブルとベッドくらいしかなく、水も食料もないけれど、昨日は洞窟で一夜を明かしたから寒さが凌げるというだけで嬉しい。
暖炉に火を入れて、アルが捌いたウサギとカモを焼いただけの夕食を済ませると、小さなベッドに潜り込んだ。
アルは暖炉の前でビンから直接酒を飲んでいる。ベッドの中から明々と炎に照らされている橙の横顔を見た。
「寝ないのか」
ルシオが小さく声をかけると、す、と目を細めてこちらを見る。その顔は穏やかで優しく、その中にどことなく愛おしさが含まれているような気がするのは自惚れだろうか。心臓がきゅうと振り絞られるように痛む。
「……そうだな、寝るか」
手早く服を脱ぐと、小さなベッドに潜り込んでくる。ルシオは壁際に身を寄せて、大きなアルの身体が落ちないかを気にした。
アルは宿でも野宿でも独りで寝ようとしていたけれど、あの温泉での後からはルシオの方から側に近寄って寝ていた。寒さをしのぐため、と言ってはアルの懐の中にすり寄って、体温と匂いに包まれて安心して眠った。
そんなルシオの気持ちをわかってか、アルも何も言わずルシオを抱き込んであやすように頭や背中を撫でてくれていた。
「狭いな」
アルが呟く。さすがに簡易の小さなベッドに男二人は無理やりなところがある。
アルは独りで寝たいだろうか。そう思うと、こうして狭いベッドの中でくっついて眠りたいと思っているのは自分の我がままでしかないのかもしれないと思えてくる。けれど、今さら「独りで寝る」とベッドから抜け出すこともできない。
せめても、とアルに背を向けて同じ方向を向いた横臥ならスペースもできるだろうかと体勢を変える。するりとアルの腕が腹に回って来て、抱き寄せられるように背中に体温が密着した。
暖炉に燃える炎のおかげで部屋は暗闇に沈みはしていないけれど、なぜか心臓が早鐘のようにうるさい。
実のところあの温泉以来、アルはそういう意図を持っては触れてこなかった。こうして密着して、アルの手もこうして腹に回っているのに、それ以上、下にも上にも向かわない。
キスもしてくれない。
あの時は、単なる気まぐれだったのだろうか。本当は、こんなに痩せっぽちな子どものような男の身体に興味はないのかもしれない。
ただ子どもをあやすような気持ちで、こうして暗くて寒い夜を添い寝して過ごしてくれているだけなのかもしれない。
背中の体温に溶けてしまいそうだ。それならそれで仕方がないか、とも思う。
うつらうつらしながら考えていても、身体はしっかりとアルの体温に昼間の疲れと緊張をほぐされていて、心は安心感の中でまどろむことを覚えてしまっていて、早鐘のようだった心臓もアルの胸の呼吸に合わせるように落ち着いてくる。
アルが自分のことをそのようには見ていなくても、ルシオにとっては唯一自分を明け渡すことを許した相手だ。
これから先、アルと離れてしまうことがあっても、アルが大切に思う誰かが現れても、ルシオにとってそれは変わらない。
アルがルシオの唯一であることはこれから先も一生変わらない。きっともう、これ以上の相手と出会うことはない。
早々に寝付いてしまったルシオの寝顔を眺めながら、アルは黒髪の丸い後頭部や耳や頬にキスをして呟く。
「もう少し、欲しがってくれてもいいんだがなぁ。これじゃあ雛を抱える親鳥だ」
苦笑して自分もまぶたを閉じた。
***
豪奢なベッドの上で、金糸の髪が乱れたシーツに波打ち、彫刻のように瑞々しい肢体を投げ出して、アークはぼんやりと枕の刺繍を睨む。
「大丈夫ですか、アーク様」
ベッドの天蓋から垂れる紗の布の向こうから、控えめに声がかけられた。
「疲れた。動けない」
「……失礼しても?」
「早く浴室に連れていけ」
紗のカーテンが開けられ、白い修道服に鮮やかなブルーの紐で腰を縛った男が覗いた。
この教団ではブルーは紫や濃紺に続き、幹部たちの次ほどの位にある。短く整えた蜂蜜色のカールした猫毛と灰色の瞳が無感情にアークを見下ろす。アークよりは一回りほど年上であるような印象は、背の高さやがっしりとした肩幅、落ち着いた態度などから見てとれる。
アークが重たい腕を上げると、男はアークの裸体を抱え上げ、そのまま隣の浴室に運んだ。
「一晩中三人もの相手をさせられる身にもなってみろっていうんだ」
壮絶な夜の内容と、組織の中枢への文句を軽い口調でぼやくアークは、言葉の内容に反して年相応な表情で口を尖らせた。
「宰相と外交官がお見えになっていたようですね」
「そう。私はただの接待人形だ」
男は一見冷たそうにも見える灰色の瞳を一瞬鋭くして眉間に皺を作ったけれど、アークの身体を浴槽に沈める頃にはまた無表情に戻っていた。
浴槽にはすでにお湯が張ってあり、柔らかな湯気の合間にピンクの花が浮かんでいた。
男は丁寧な手つきでアークの身体を洗い、細かく立てた泡で輝く長い髪を洗った。
「キリル、ルシオはどうなってる」
「北の街とその後森の中に追い詰め、今一歩のところで取り逃がしたようです」
ばしゃん!
キリルの顔にお湯がかけられた。
「世間知らずな神子一人捕まえるのになにやってる! 全員懲罰だ! 鞭で打て!」
ばしゃん、と湯の表面を両のこぶしで叩く。
「……お言葉ですが、アーク様」
顔を一度ぬぐって、それでも顔色一つ変えずにキリルはアークを洗うことを続けた。
「なんだよ!」
「いちいち懲罰を与えていては追わせる人手が減ってしまいます。ひとまずルシオを捕まえることに集中させた方が効率的かと」
「……くそっ! くそっ、くそっ、くそっ!」
子どもがヒステリーを起こすように、手近にあった花を握りつぶして投げる。
「髪を流します。目を瞑って」
キリルの言葉にだけは大人しく従うように、浴槽の淵に頭を預けて、上を向いて目を瞑った。キリルはその美しい顔を守るように手のひらで覆いながら、頭に湯をかけて洗い流した。
「どうやら、一人ではないようです」
ぱち、と夏の湖のようなエメラルドグリーンが大きく見開かれた。
「なに?」
「報告によると、赤い髪の大柄の男と二人で居るようで、その男が腕が立つらしくルシオを守っているようですね」
それを聞いた途端、アークの顔が歪む。
「うわぁぁぁぁっ!」
湯を汲んでいた桶を投げ、手当たり次第に石鹸だの花だのを投げ、まだ泡の残る髪を掻きむしり、カーテンを引き千切り、その上を転げまわった。
怒りなのか、悔しさなのか、それとも悲しみによってなのか、本人にも判別ができず理解もできていない感情を持て余しているようだった。
「ああああああ!」
目についた陶器の石鹸入れが割れた破片を握る。大理石の床にぽたぽたと赤い血が零れた湯に滲んだ。発作的に首にでも顔にでも当てて傷つけることもできたけれど、破片がアークを傷つける前に、大きな手が破片を握りこんでそれを防いだ。
「……きもちわるい……、私に触るな」
キリルの手を振り払っても、キリルは無表情のまま落ち着いた態度で床に散らばる破片から遠ざけた。
「アーク様、こちらを見てください。危ないのでこれは離して。さあ、もう一度ゆっくりと風呂に浸かってください。怪我を見せて。手当しましょう。大丈夫、ルシオもすぐに捕まります。捕まえたら拷問するなり犯すなり好きにすればいい。あなたのことは私が守ります。さあ、こちらへ」
浅く早い呼吸を繰り返すアークから破片をゆっくりと取り上げ、抱え上げて、もう一度浴槽の中に戻す。
「湯が冷めてしまいましたね。早く泡を流してしまって服を着ましょう」
大人しくなったアークは、うろんな瞳で浴槽の中を見つめるばかりだった。
***
雪の森は、足元も覚束ない上に雪の下がどうなっているのかもわからない。横倒しになった木を避けたつもりで、踏みしめた雪の下は不安定な岩場で体勢を崩す。
「うわぁっ!」
とっさに横から腕を掴まれて事なきを得た。
「だから、俺が抱えて行くと言っているだろう」
「……大丈夫だと言っているだろう」
ふぅ、と息をついて体勢を整えるふりで立ち止まる。
辺りに密集する背の高い裸木を見上げる。見渡す限り白を被った黒い木だけだ。今朝になって雪は止んでいたものの、きらきらと氷の粒子がわずかな陽の光を受けて踊る。気温は降っている間よりむしろ低いだろう。自分の足で歩いて身体を動かしていた方が、まだ凍えなくてすみそうだった。
それに、最近はあまりにアルにばかり頼ってしまっていて、これではアルと離れた時にはなにもできなくなっていそうで不安になる。
今までずっと独りで耐えて踏ん張ってきたのに、それをあっさり抱きかかえられて、その温かさに慣れてしまって、もう二度と独りで立てなくなってしまう気がして怖い。
「大丈夫だ。独りで歩ける」
もう一度そう言って、雪の中から足を引き抜いて大きく一歩を踏み出した。その時。
「きゃあああああ! 助けて!」
少し先で、女性の悲鳴が聞こえた。思わずアルの顔を見上げるけれど、アルは至って平常で無関心に樹上から落ちる雪を見ている。
「アル! 僕は早く走れない、先に行って様子を見てくれ」
アルのローブの上から袖を掴んで叫ぶ。
「様子を見に行っている間に君になにかあったらどうする」
「僕は大丈夫だ! 早く助けないと獣に襲われているのかもしれないだろう!?」
「獣の腹が満たされるじゃないか」
「獣には別の獲物を探してもらう!
アルはいつも僕を助けてくれるだろう。いつもありがたいと思ってる。今、目の前にアルの助けが必要な人がいるんだ。頼む、アル」
アルがじっとルシオを見下ろす。
「……ふむ、いい機会か……。わかった、女を助ければいいんだな」
なにかを思いついたように大きく頷いて、アルは地面を蹴った。そびえる木々を踏み台にして、一蹴りごとに高く数本先の木へ飛び移っている。雪がないところを選んで足場にし、重たい雪に捕らわれる前に跳んでいる。
その様子を眺めてほっと息をつくと、自分も急ぐために雪の中を進んだ。
しばらく必死に進んでいくと木々の向こうに鮮やかな赤が目に入った。その足元には女性が地面にうずくまっている。
「アル! 助けられたのか、なにがあったんだ?」
駆け寄ってみると、柔らかなブラウンの髪を一つにまとめたコートの背中は小刻みに震えている。
「足を挫いているらしい。動けなくなっているところを狼に狙われていた」
「あの、助けて頂いて、本当にありがとうございました」
顔を上げた女性は、ルシオより少し年上かと思われる妙齢の、控えめで可愛らしい、野に咲く花のような印象の女性だった。
けれど、その表情は青ざめ、よく見ると髪も服も泥に汚れ乱れている。
「大丈夫ですか。顔色が悪い、足が痛むのか」
「だ、大丈夫です」
女性は近くの木を支えにして立ち上がろうとしたとたんに、足に痛みが走ったようで顔を歪めてよろめいた。その華奢な身体を横から支えたのは、アルだった。
「あ、ありが……きゃあ!」
突然なんの断りもなく、アルが女性を横抱きに抱え上げた。
「痛むんだろう、俺が運ぼう。どこまで行くんだ?」
女性の青かった顔は見る間に赤く染まり、慌てて乱れたスカートの裾を押さえた。
「あ、あの! 大丈夫ですから! 自分で歩けます!」
アルと目線を合わさないように俯き加減で、小さな声で抗議する。恥ずかしそうではあるけれど、言葉ほどには嫌がっている風には見えない。
「そ、そうだ、いきなり女性を抱き上げるなんて失礼だろう。アル」
僕のこともいつも抱き上げるけれど。もしかするとアルの中では特別騒ぐほどのことじゃないのだろうか。
「い、いや、アルにとっては普通のことかもしれないけれど、多くの人にとっては普通しないものだ。アル!」
「じゃあ、このままここに置いていくのか? 歩けない女を独りで? また狼に狙われるぞ?」
女性の顔がまた青ざめる。置いていくなと、アルのローブにしっかりとしがみ付いた。
「あ、あの、お願いします。このまま、あの、村まで連れて行ってもらえませんか。初対面の方にこのようなことを頼むのは大変失礼だとは思うのですが……! お礼も、お礼も致しますっ! どうか……」
当の女性が了承したことで、ルシオにはもうなにも言えなくなってしまった。女性の言うがまま、指された方向に向かって歩く。アルは相変らず関心の薄い表情で黙々と歩いていて、なにを考えているのかわからない。
「私はマレーナと申します。あの、お二人のお名前は……」
「僕は、ルシオだ」
「ルシオさん。あの、あなたは……」
マレーナがほんのりと頬を染めながら、アルの顔を見上げる。
「アルだ」
そっけない答えだった。
「アル様」
けれど、マレーナは嬉しそうに反芻していた。
しばらく歩くうちに状況に慣れてきたのか、マレーナは時折アルに話しかけるようになった。最初は控えめにだったけれど、徐々にほがらかに楽しそうにおしゃべりに花を咲かせている。
マレーナ自身は、この近くの村に住んでいるけれど、薬草を探しに森に入ったら雪に足を取られて転んでしまった、ということだった。
ルシオたちのことも熱心に尋ねているけれど、興味の対象はほとんどアルだろう。二人はどこから来たのか、どこへ行くのか、旅の目的はなんなのか。ルシオが神子であることや、旅の目的などは上手くはぐらかしながら、アルは淡々と質問に答えていた。
ルシオは先ほどから、胸の辺りがもやもやと落ち着かない。抱えられたマレーナは、当然だけれどアルとの距離も近く、アルの方を向いて一生懸命話しかけている。会話をしているアルは、ずっとマレーナの顔を見ている気がする。
隣にルシオが歩いているのに、ルシオの方を見下ろして笑いかけてくることはない。隣に居るのに会話にも入っていない。
アルに抱きかかえられたときのことを思い出す。アルの太陽のような匂い、あたたかさ、腕の力強さ、アルの高さから見える景色。その場所に、今はルシオではなく、マレーナが居る。
仕方がないのだ。彼女は足を痛めている。ルシオには彼女を運ぶことは難しいだろう。アルが運ぶしかない。
でも、抱きかかえることはないんじゃないか。いつも人を気安く抱きかかえるなと言っているのに。背負えば良かったじゃないか。アルは背中もあたたかいけれど……。いや、そうではなくて。
別に、彼女が悪いとか、アルが悪いとかそんなことを言いたいわけではなくて。彼女を助けて欲しいとお願いしたのは自分の方なのだから。だから、仕方がない。
村に着くまでの我慢だ。我慢? なにを? 自分がなにを我慢しているのだというのだろう。
気が付けば、なんだか苛々と黙り込んだまま、乱暴に雪を蹴り上げながら歩いていた。
むだに大きく膝を持ち上げては、音を立てて垂直に雪の中へ沈める。転ばないように、この苛立ちを誰かにぶつけないように、無心になれるよう努めて、ざくっざくっと雪を踏みしめることに集中した。
「あ、見えました。あそこです」
森を抜けたところでマレーナが指差した先には、谷に囲まれるように小さな家々が密集する村があった。
アルは、マレーナを抱えたまま村に向かって歩を進めた。その後を、ルシオも少しほっとしながら付いていく。マレーナが「ここでいい」と言い出すものだと思っていたけれどなかなか言い出さなかったので、ルシオが遠慮がちに口を開いた。
「もう大丈夫じゃないか。あまり人に見られても良くないだろう。小さな村だし……。家はどこだ?」
ようやくアルがルシオを目に留めた。一瞬笑ったような気がしたけれど、ルシオの気のせいだったのかもしれない。
「あの……、よろしければこのまま私の家まで連れて行って頂きたいのですけど……構いませんか? 私の家は村の外れで、まだ少し距離があるものですから」
マレーナがそう言うと、ルシオもアルもだめだとは言えない。
けれど、村の中に入ってしまうと、やはり村人たちの視線を集めることとなった。ほとんどが顔見知りのようで、皆一様に驚いた表情や眉をひそめる仕草をしている。見知らぬ顔を警戒してか話しかけては来ないので、マレーナが足を痛めていて、という言い訳を聞いてくれる者が誰一人居なかった。
「大丈夫なのか? 村の人たちに妙な勘繰りをされたら……」
視線が合えば次の瞬間に逸らされる、ということを何度か繰り返すうちに、ここで暮らし続けなければならないマレーナのことが心配になってきた。
「……大丈夫です。元々、私たちは“こう”ですから」
そう答えたマレーナの声は、先ほどまでとは全く違って固く閉ざしたような冷たさだった。小さなコミュニティーにはありがちな“はみ出し者”ということだろうか。なんだか正体のよくわからない重苦しさの蔓延する村だというのが、ルシオの第一印象だった。
森の中に居たときにはほとんど見えなかった空は、気が付けば低く重たい雲が立ち込めていて、今にも大きな雪が降り始めようとする気配が漂っていた。
村の中を突っ切って奥の小さな緑の屋根が、マレーナと母親が二人で住んでいる家だった。
扉を開けたマレーナの母は驚き、娘を助けてくれたことの礼を言いながら、アルとルシオを快く招き入れてくれた。ベッドに腰かけたマレーナの足には、母親特製の薬草がすり込まれ、また違う種類の葉を巻いて、その上から包帯が巻かれた。
「すごいな、それで足が治るのか。こんな方法は初めて見た」
ルシオは興味深げに観察しては、驚きと称賛の声を上げる。
「折れたりしていればまた処置は違ってきますけど幸い折れてはいないようなので、こうして熱をとる薬草と痛みをとる葉を巻いておけば、おそらく二、三日うちには」
マレーナに良く似た母親が、穏やかな笑みを浮かべる。娘を助けてもらったからか、村の人々よりもずっと親しみ深くルシオたちに接してくれていた。
「あなたたちが娘を助けてくれなかったらどうなっていたことか……。本当にありがとう。なにもないけれど、せめて今夜くらいは泊っていってちょうだい」
「こちらこそ助かる。ありがとう」
母親の言葉にマレーナもぱっと顔を輝かせて、ルシオの後ろにいるアルを見る。
「夕食も! 私が作りますから、あの、アル様はなにかお好きなものがありますか?」
「その足で作れるのか?」
「あ……」
「じっとしていろ。俺たちは今まで野ウサギなんかを狩って食べてたんだからなんでもいいんだ」
同意を求めるようにルシオを見る。それは確かに事実で、ルシオ自身も食べるものにほとんどこだわりがないので頷くけれど、なんとなく素直に同意できない。いつものアルならば「美味い酒と肉」と言っていたはずだ。
今の言い方は、マレーナを気遣ってのことだろう。ルシオ以外にも気が遣えたのかと思う半面、なぜマレーナにはこうも優しくするのかと思ってしまう。
実際、その言葉を受けたマレーナは頬を赤くしてお礼を言っている。母親もそれを微笑ましく見守っている。ルシオだけがなぜか苛立っている。気付かれないように小さく息を吐いて、気を静めた。
その時、玄関が開く音と同時に声が聞こえた。
「マレーナ! ケガをしたって本当かい!?」
マレーナと母親の顔が一瞬にして曇る。
「マレーナ!」
大声で叫びながら、家主がなにも反応していないにも関わらず、入って来る足音がする。そして、寝室の扉がノックもなく開かれた。
「マレーナ! ああ、居るんじゃないか。大丈夫かい?」
入ってきたのは、痩せ気味の神経質そうな青年だった。
「ああ、マレーナ、心配したよ」
勝手に寝室まで入って来るのだ、親しい間柄なのだろうと判断して、ルシオはアルを促して退室しようとした。けれど、背中から聞こえてくるマレーナの言葉は、村に入ったときと同じように固く、わずかな拒絶が感じられていた。
「大丈夫です。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「そんな、水臭いじゃないか。マレーナのためなら飛んでくるよ、私の婚約者なんだから」
ちらりと振り返ると、マレーナは俯いて薄く唇を噛んでいた。母親も複雑な表情だ。
「ああ、君たち」
黙って部屋の外へ出たところで、青年に呼び止められてしまった。
「君たちが助けてくれたんだってね。礼を言うよ、ありがとう」
近付いて右手を差し出されるのを、ルシオはためらいがちに見た。ちらりとマレーナや母親の表情を盗み見る。
なにか込み入った事情がありそうで、ルシオが彼を邪険に扱ったりしようものならマレーナたちが困ることになるのかもしれない。小さくため息をついて、手を握り返そうとしたところで、後ろからアルの手が出てきて握手に応えた。
「私はダニエル。婚約者を助けてくれて感謝する」
「俺はアル。こっちはルシオ。たまたま彼女の悲鳴を聞いただけだ。なにもしちゃいない」
二人を見上げる位置にいたルシオからは、ダニエルの表情がよく見えた。一見にこやかに振る舞っていたようだけれど、瞳はわずかに影を帯びて笑っていない。少なくとも、婚約者を助けてくれた感謝が現れているようには見えなかった。
ダニエルは口元だけでにこりと笑うと、こう言った。
「彼女たちはこの村で“魔女”だと言われていてね。せいぜい惑わされないように気を付けてくれよ」
ともだちにシェアしよう!