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第15話 悪魔憑き

 連れて行かれたのは、この村唯一の小さな教会だった。簡素な講壇と長椅子がいくつか並ぶだけのよくある教会だったけれど、講壇の向こうに掛かるタペストリーは、ルシオのよく知る教団のものだった。  夜中だということもあり、そのまま教会の地下へと続く土階段を後ろから急き立てられるように降りた。  そこには、ただ土を掘られた穴に鉄格子をはめ込んだだけの地下牢があった。  投げ込まれるように牢の中へ押されると、後ろで拘束されたままだった手では受け身がとれず、カビ臭い地面の上に倒れ込んだ。  明かりは男たちの持つランプだけで、窓もなく暗くて狭い湿った空間は、懲罰房の記憶そのものだった。  倒れ込んだ拍子に着たままだったスカートが捲れ上がって白い足は太腿まであらわになる。胸元も簡単にずれ落ちて、寒さから肌が粟立つ。ルシオを連れてきた男の一人がそれを見て舌なめずりした。 「まだ魔女だと認めてないらしいな。俺が吐かせてやる」 「おい、こいつ男だぞ」 「男でも具合がいいやつがいるらしいじゃねぇか」 「お前も好きだなぁ。俺はやっぱり女がいいね」 「じゃあ、見張りはお前が一番だな」  男たちは、一人を残しそれぞれ上に戻っていった。  舌なめずりしていた男が牢に入って来る。自由にならない腕と足を使って少しでも男から距離をとろうと這って遠ざかるけれど、すぐに肩が壁についてしまった。  足を藻掻かせたせいで余計に両足を見せてしまう。いつもなら足くらい気にならないのに、スカートからのぞく足はどうしてこうも無防備な気がするのだろう。 「魔女め、俺を誘い込んで唆す気か? 男のくせにきれいな面しやがって、男を誘い込む陰気をまき散らしてやがる」  なにを言っているのか理解したくもないけれど、男がなにをしようとしているのかは良くわかった。もしかすると今まで裁判にかけようと連れてきた女性たちにも同じことをしてきたのだろうか。  バンッ! と左頬に衝撃を感じた。  続けざまに右頬、左頬と殴られる。耳にも当たったのか、右耳がじんとして奥の方で高音が鳴っていた。  光源は男が地面に置いたランプだけなのに、目がちかちかと白く明滅する。壁からずり落ちて地面に横になると、ドン、と腹に重たい痛みを感じて一瞬息が止まる。 「! っ……ぐ、げほっ、っぅぐ!」  影の動きによれば、どうやら蹴り上げられたらしい。  ドッ! ドスッ!  数度同じように蹴られたり、踏まれたりする痛みに身体を丸めて耐える。 「この魔女めがっ! 吐けっ、魔女なんだろ!? おら、どうした! 魔術で反撃してみろっ!」  何度も蹴られ続けて、なにかを考える隙も、言葉を発する隙も無い。ただ自分の身を守るために身体を固くする。  ある程度蹴って満足したのか、男が肩で息をしながら動きを止めた。  衝撃が止んだのでルシオも少しだけ息を吐いて力を抜くと、身体中あちこちに痛みを感じる。拘束されたままの手首は、蹴られる度に引っ張られて縄が食い込んでいる。  男はぜえぜえとしながらも口元に下卑た笑みを浮かべた。  地面の泥と影の中に沈んだルシオの身体をごろんと仰向けさせて歯向かう様子がないことを確認すると、スカートの中に手を這わせる。両足を広げられ、男はその間に陣取った。布地をたくし上げて足から下着までほとんどを目前に晒して、男は自らのズボンの腰の革ひもに手をかけた。  その瞬間、ルシオは男の股間を力いっぱい蹴り上げる。 「ぐあっ!」  男は呻き、前屈みになって悶えていた。  ルシオは男の下から這い出し、壁を伝ってなんとか立ち上がった。  牢の出入口は中から鍵がかからない。男が中に居る間は鍵がかけられないだろう。そう判断して、鉄格子の小さな出入口に後ろ向きで掛け金を外そうと探る。  けれど、その間にも男が立ち上がり、怒り任せにルシオの首に腕をかけて引き摺り倒した。とうとう怒り心頭に達したのか力任せに拳でルシオの顔を殴りはじめた。  腕で防ぐことができないから歯を食いしばって衝撃に備える。口の中に血の味が滲んだ。脳が揺れて、痛みや衝撃が遠くなる。  けれど、意識を手放すわけにはいかない。意識を手放したら男の好きにされるだけだ。どんなに耐えがたいことでもその間に隙が生まれるかもしれない。そのチャンスをこそ手放すわけにはいかない。  男がまた腕を振り上げたのを目の端に留めると、目や鼻を守る為に頬を差し出すように顔を背けて痛みを覚悟した。  けれど、その腕が降り下ろされることはなかった。ばさり、と男が覆いかぶさって倒れる。下に居るルシオに男の体重が全てかかってくるけれど、男はぴくりとも動かない。  不自由な体勢で重たい男の身体を押し退け、下から這い出る。壁際までずりずりと後退し、壁に背中を付けて座るとようやくほっと息をついた。  自身の恰好を見下ろすと、女性もののドレスが泥と埃だらけのボロ切れのようになっていた。引き千切られたコルセットの上部と大きく開いた首元が肩からずり降ろされ片方の胸があらわになっている。  そこから、肌身離さず首からかけている石が転がり出た。ふう、と大きく息を吐いて壁に頭を預けて天井を仰ぐ。窓もない地下で、ここではオーロラも朝日も見えないだろう。  アルに会いたい。寒さに耐えるように膝を引き寄せる。帰りたい。アルを喚びたい。アルに会って、抱きしめてられて、体温を感じて、安心したい。叫んで、痛かった怖かったと泣いてアルにすがりたい。  けれど、まだなにも掴んではいない。アルを喚んで助けてもらってそれで終われるのなら、初めからこんなところまで来ていない。  地下牢の隅で身体中の痛みに耐えながら、少しでも体力を回復させるために目を閉じた。次に交代した見張りの男はルシオに興味がなかったのか、少しの時間、浅い眠りを得ることができた。  翌朝早く、牢の外の扉が重たい音を立てて開くと、数人の男たちに両脇から抱えられ教会へと連れて行かれた。  後ろ手に縛られていた縄を外され、身体の前で木の板の手枷を着けられた。  簡易の裁判所の代わりになった教会の講壇には、中年の男が立っていた。その服装はゆったりとした生成りのワンピースに濃紺の紐帯、赤の前垂れといった教団の位の高い司祭の祭服だ。  左右に並ぶ男たちも、服装から判断するに近隣の貴族と、教団の高位の司祭たちだろう。その中には、昨夜顔を見たこの村の領主も居る。一般の村民たちはきっと一人もいない。  ぎり、と奥歯が鳴った。 「やっぱりあんたたち、教団の仕業だったのか! 魔女だなんて過去の妄執を持ち出して、なんの罪もない人たちを裁判にかけたのか!?」  今にも噛みつきそうな勢いで糾弾するルシオを、左右から役人たちが抑え込む。  魔女裁判とは、もともと数百年昔に教団が自分たちに迎合しない他教徒を見せしめにするために行っていたことだ。  講壇に居た司祭が、ギャベルという木槌を高らかに鳴らす。 「我々に責任を転嫁させようというのか。静かにしろ、魔女め」  怜悧な声でそう言い放ち、ちらりと目で合図を送ると、ルシオは男たちの視線が集まるなか中央に立たされた。  どうやら、ここに居る教団の連中は、ルシオを逃亡中の神子だと気が付いていないようだった。 「これより、裁判を始める」  なにが裁判だ。ここに公平さは微塵もない。ルシオの味方は誰一人居らず、初めからルシオを魔女と呼んでいることからも、それ以外の結論を導こうという意思は見当たらない。  ここは、連中が魔女にしたい人間を魔女だと公言する場所なのだ。  カンカン、とギャベルが鳴り響く。 「女物の服を着ていることからも、この少年が男を騙し、誘惑し、篭絡しようとしていたことは明らかである。己を魔女だと認めるか」 「認めるわけがない。僕は魔女じゃない」 「魔女は身体のどこかにその印が刻まれているという。調べよ」 「なっ……!?」  司祭が命令すると、左右の役人たちがルシオの服に手をかける。 「やめろ! 僕に触るなっ!」  肘を振り抜いて役人の顔に当てる。頭に血が上った役人がルシオの腹を蹴り上げるけれど、それを止める者はいない。押し倒されて、スカートの裾を力任せに引き裂かれた。 「やめろっ! ……自分で脱ぐ」  無理やり裸にされるくらいなら、自分で脱いだ方がいくらかマシだ。  服を脱ぎ始めるルシオに視線が突き刺さる。コルセットを外すのに手間取っているふりをして、首からかけていた石を手の中に握りこんで隠した。  ぱさり、とワンピースが床に落ちる。ルシオの白い肌が衆目に晒された。貴族や教団の男たちがにやにやと下卑た笑いを漏らしているのが目の端に映る。 「まだ下着が残っているぞ」  どこからか声がかかる。  ぎり、と再び奥歯を噛みしめて、下着に手をかけた。屈辱と羞恥に耐えながら手と手枷で股間を隠し、講壇の方を真っすぐに見上げる。 「……女性たちにも同じことを強いたのか」 「当然だ。裁判の手順だからな。 魔女の印は小さく、他人からは見え難い場所に現れるという。 くまなく探せ」  司祭の命令で、役人どころか周囲の男たちが全員ルシオに群がってきた。 「やめ……っ! やめろっ! 僕に触るなっ!」  暴れるルシオを数人で軽々と持ち上げて、長机の上に乗せる。そして腕を頭の上で縫い留められ、片足ずつ開くように持ち上げられた。為すすべもなく、気が付くと秘所が男たちの眼前に露わにされていた。  おお、とからかうようなどよめきに全身が朱色に染まる。 「離せっ! 触るな! 見るな!」 「おお、なにかに憑りつかれておるように暴れるな。悪魔憑きではないのか?」 「悪魔もその身体に印を残すという。探さねばな」 「なんと薄い色か。男を惑わす色香だ」 「罪深い」「救いたまえ」 「やめっ、嫌だ、触るなっ!」  口々に好きなことをのたまいながら、男たちはルシオの身体の様々なところに手を這わせる。  小さい頃の恐怖や、塔での悪夢の時間が蘇る。気持ち悪い。今にも嘔吐しそうに、腹の底からなにかがせり上がってきたとき。 バチン!  なにかが爆ぜたような音がして、群がっていた男たちが一斉にルシオの身体から弾け飛んだ。  素早く起き上がり、足元の服をかき集めて身に着ける。男たちは唖然とし、次の瞬間には驚愕し、恐怖した。 「魔術だ!」「魔術を使ったぞ!」「やはり魔女か、悪魔憑きだ……!」  もはやルシオに率先して触れようとする者はおらず、司祭のギャベルも裁判の混乱を静める役には立たなかった。 「なにをしている! 取り押さえろ!」  司祭の大声で、ようやく役人たちが長い槍を構えて、手枷を着けたルシオを恐々取り囲んだ。 「……女性たちにも、同じことをしたと言っていたな……」  煮えたぎるほどの怒りを滲ませてルシオが言った。 「最初の女性はソフィア、といったか……」  睨まれた司祭が怯む。貴族や教団の連中を順に見遣る。 「目を付けたんだな……?」  数日間も誰の目にも触れず裁判が行われたと聞いた。ここでなにが行われたか、もはや疑う余地はない。貴族の一人が怯えたように言った。 「お、俺は、教団の連中に誘われただけだ!」 「黙りなさい!」  講壇の上で、司祭がギャベルを鳴らす。 「我々は魔女を糾弾しただけだ! ソフィアは魔女だった! 我々が正しいと証明してやる! 池へ連れて行け!」  役人に槍で周囲を囲われて、ルシオは村の通りを人々の視線を集めながら歩かされた。  至るところに殴られた痣と手枷、ぼろ切れになったワンピース一枚で寒さに震えながら着いたのは、村のはずれにある小さな池だった。辺りの草などは刈り取られていて、雪が降っていない時期であれば村の広場として機能しているのかもしれない。  けれど、憩いの場と言うにはあまりに不似合いなものが威圧感を放っていた。木を組んで造られた磔台だ。両手を広げて縛り付けられる十字の形をしている。  池は分厚く凍っていて、その上に雪が降り積もって、一見した限りでは池があるとはわからない。そこを槍で突いて半分ほどの面積の氷を割る。温度が低いからか水は澄んで見えるけれど、深さがあるようで水草が林のように水底を覆っている。  村人が集まり始め、司祭や貴族たちが居る広場から少し離れた場所で遠巻きにこちらを見ていた。  その顔には、ぶつける先を探している怒り、歪んだ正義感が渦巻いているように見える。ルシオを魔女だと信じて疑わない。悪なのだからどんな拷問も刑罰も当然だと、信じて疑わない表情だ。  その中にマレーナの姿もあった。青ざめて、恐怖に怯える表情だった。 「みんな、聞いてくれ! 全てここに居る教団や貴族たちが自分たちの欲望の捌け口に女性たちを利用しただけだ! 魔女なんか居ない! 全て教団が創り出した妄言だ!」  ルシオは叫ぶ。 「マレーナ! 君はソフィアの磔と死刑になる様子を見たんだな?」  マレーナは震えながら耳を塞いだ。  可愛がってくれていたソフィアの磔と狂気に陥ったソフィアの呪いの言葉に、マレーナは大きなショックを受けた。自分も魔女だと言われる恐怖、閉鎖的な村の生活への嫌悪、無意識下での男性嫌悪。それらがマレーナを蝕んだ。  ダニエルは、マレーナにとって嫌悪するべき対象の側に居る人間だった。  役人が槍でルシオの首を圧迫して黙らせる。  村人たちは、ルシオの言葉を聞いても誰一人として信じていないようだった。教団は神だ。領主や役人も、彼らにとっては平服するべき権力だ。どこの誰かもわからないようなルシオの言葉など聞く耳を持つ者はいない。  皮肉なことに、マレーナだけが本能的に嫌悪の対象を正確に察したのだろう。 「魔女が俺たちを唆そうとしているぞ!」 「この村に災いを持ち込んだのはお前だ!」 「魔女め!」「悪魔め!」「立ち去れ!」  ルシオの頭に石が当たった。それを機に、至るところから石が飛んでくる。役人たちにも当たるため、役人が怒鳴りつけるけれど、村人たちの耳にはもうなにも入らない。  その中に、アルは居ない。ホッとしたような、寂しいような、そんな気持ちになる。アルがこの場に居たら、きっとルシオのために怒ってくれていたに違いない。  アルの顔が見たかった。たった一晩離れていただけで、こんなにも独りを感じてしまう。  離れたところに風車が見えた。 「浮いてくれば魔女だという証だ。落とせ」  役人がルシオの両足も縛り、ほとんど身動きのとれない身体を池の中に放り投げた。  ドボンーーーー!  刺すような冷たさが全身を貫き、身体どころか内臓までも一瞬にして動きを止めそうだ。手も足も全く動かせず、水草が絡まってくる。  アル。  アルーー!  透明になる視界のなかで、燃えるようにあたたかな赤が見えた。凍った池の中でも消えない炎は、その腕でルシオを抱き寄せ、水草を物ともせず水面から飛び出した。 「げほっ、ごっ、ほ……っ、アル」  抱きしめたいけれど、手枷が邪魔だ。  片手でルシオを抱き上げていたアルは、もう片方の空いている手で手枷を掴むと、少し力を入れて容易く板を粉砕してしまった。 「アル」  改めてアルの首に縋りつく。あたたかい。二人とも濡れているはずなのに、アルの体温はなによりもルシオに生きていることを実感させてくれる。  アルに抱きついたまま、ようやくうっすらと目を開くと、そこは雪のちらつく空だった。  理解が追い付かず、ゆっくりと視線を下ろすと、半分氷の張った池が小さく見える。その横の広場では、司祭や役人、貴族たちがぽかんと口を開けてこちらを見上げている。  ばさり、と視界がなにかに覆われた。赤く、薄い膜のような皮が張られ、骨組みには爬虫類のような網目の皮膚。それが、ばさり、ばさりと羽ばたく翼なのだと認識したときには、二人の身体がゆっくりと下降していた。 「……アル……?」  広場に降り立っても、アルはルシオを片腕の上に乗せて抱きかかえたまま、一歩一歩司祭たちに近付いて行く。  怒っている。アルの身体から燃え上がるような怒気が溢れ、それが人々を圧倒していく。  池に潜るときに置いてきたのか、ほとりに放ってあった上着とローブをルシオに被せ、その上着のポケットには銃が入っていた。上着をしっかりと手繰り寄せ、ほっと息をつく。  そうしている間にも、司祭たちや、村人までもが、悲鳴や怒号を上げて混乱の中を逃げ惑っていた。 「悪魔だ……!」 「悪魔が魔女を助けたぞ……」 「悪魔!」「寄るな!」「逃げろ!」  アルはふう、と大きくため息をつくと手近に転がっていた槍を拾い、手に力を込めた。その瞬間、槍から火が上がり、あっという間に炎に包まれて黒く焦げて崩れて行った。 「魔術だ!」「いや、悪魔の力だ……!」 「神よ、我らをお救いください!」  アルはゆっくりと歩を進め、手に触れるあらゆるものを炎に変えていく。辺りは類焼も含め、瞬く間に火の海へと変わっていった。 「本当に、人間は不味そうだ。 俺の宝を攫った上に傷つけた罪、その命をまとめて差し出されても贖えんぞ」  アルの瞳の瞳孔は細く縦に長く、爛々と金色に輝き始める。 「ヒッ!」  司祭が腰をぬかしたすぐ側には磔台があり、アルが触れると一気に燃え上がった。 「魔女は火刑に処されるんだったか……。バカなことよ。 人間ごときに傷つけることなど適うはずがなかろう」  磔台が炎に巻かれてゆっくりと倒れていく。司祭と、教団の人間が数人、下敷きになった。  枯草に燃え移り、木に燃え移り、積まれてあった藁が火に包まれ、村人たちへ迫っていく。 「マレーナ!」  喧騒の中に聞き覚えのある声が聞こえた。 「ダニエル……、屋敷に連れて行かれたはずなのに。拘束もされていないのか」  逃げ惑う人々に逆らうように、ダニエルが広場に走り寄って来る。  マレーナは、アルとルシオの前に立ち塞がっていた。 「私は悪くないわ! あいつらが悪いのよ! あいつらが魔女だなんて……、魔女だなんて私のことを! ソフィアだって言ってたわ! 全員呪ってやるって! 全員地獄に落ちろって! ……そうよ、これはソフィアの呪いよ! 私はなにもしてない!」  喚くマレーナを、アルは無感情に見下ろす。けれど、それ以上言葉もかけず通り過ぎようとした。  燃えた藁が風に巻かれ、農具小屋に燃え移った。簡素な板づくりの壁が炎に耐えられず、マレーナの頭上に崩れ落ちようとした。 「きゃあああああ!」 「マレーナ!」  アルに抱えられていたルシオには到底間に合わず、伸ばしただけの腕が空を切る。  アルは眉一つ動かさない。  けれど、燃え盛る瓦礫からマレーナが這い出してきた。 「マレーナ……」  ダニエルが、瓦礫の下でマレーナを庇ったらしかった。服に燃え移り、炎に包まれて肉の焼ける臭いとともに、ダニエルがマレーナに這い寄る。 「きゃあああ! 来ないで! 来ないでぇぇぇ! 私は悪くないわ!」  もはや意識もないだろうダニエルは、マレーナの足元に縋りついて果てた。  けれど、炎は容赦なくマレーナのスカートにも燃え移る。 「ぎゃああああ! 熱い! 熱い! 助けて!」  ルシオはアルの腕から飛び降り、濡れたワンピースを脱ぎ、マレーナの足に巻き付けるように飛びついた。  身体の下で火は消えたようだったけれど、そっとワンピースを持ち上げるとその下を確認して眉間に皺を寄せ、またワンピースを被せた。 「ううぅぅ……」  呻くマレーナになにも言葉をかけられず、自分は上着とローブを羽織り直して、アルの側へと戻った。  アルがなにも触らなければ炎は上がらず、降り続く雪と村人たちの消火活動のお陰で、火は鎮火しつつあった。  母のノーラと村人に助け出されるマレーナを確かめると、アルはルシオを再び抱き上げて、背中の爬虫類に似た羽を大きく広げた。  雪の落ちる灰色の空をルシオを抱えて飛び、村を出て森を越えた。  ルシオは、アルの首に抱きついて髪に顔を埋めたまま身じろぎもしない。  けれど、そのルシオの背中をあやすように、あたためるように、アルは手を背中に回してくれている。  アルの体温であたためられて、徐々に気持ちは落ち着いてきた。ある程度沈んだら浮上する。顔を上げると曇り空と霧が辺りにまとわりついていた。  ふと、首に回した腕に違和感があった。  二人ともずぶ濡れだったからアルも湿っていたけれど、それとは違う、なにかぬるりとしたあたたかいものが手に触れた。そっと手の平を見ると、ぼやけた空により鮮やかな赤い血が大量にこびりついていた。 「あ……、アル……?」  手が震える。自分のものではない血が、誰のものかなんてのはわかりきっている。 「ケガをしているのか……? アル……?」  いつ、いったいどこで。 「アルっ! 降りろ! 降ろせ! アル!」  アルの身体が傾いた。眼下に見える森の中へ、ゆっくりと落ちている、と言った方が相応しい体勢で下降する。  ルシオの頭を守りながら、背の高い木の隙間を縫って何度も枝に跳ね返って、雪の上に不時着した。 「アルっ!」  閉じていた目を勢いよく開くと、身体を起こして自分の下敷きになっているアルの身体を確かめる。  アルの顔は心なしか蒼白く、目も閉じられたままだ。かろうじて、腕を上げて手を振って返事をしてみせる程度には意識がある。  雪に接している背中に手を突っ込むと、また鮮血に触れた。どうやら背中の辺りにケガをしているらしい。 「アルっ! しっかりしろ! とりあえず止血をしないと……!」  ローブを脱いで、アルの背中に回し、胸のところで強く縛る。 「……医者、医者を……アル、今連れて行くから……!」  アルが腕を上げて、ルシオの頬を撫でる。 「泣くな。俺は大丈夫だ」  そう言われて、初めて自分が泣いていることに気が付いた。今まで、どんな目に遭ってもほとんど泣いたことがないのに、自分でも驚くほど狼狽えてしまっている。  アルの血のついた手で顔をこすり、奥歯を噛みしめて、アルを脇から支えて立たせる。 「がんばれ、村だか街だかすぐに見つけるから……!」 「あー……、ちょっと身体に無茶させただけだ。君が思ってるほど傷は深くないよ」 「なんでも話すって言っただろ! なんで言わなかった!?」 「あれ以上ルカをあの場に居させたくなかったからなぁ。俺のわがままだ」  雪は深くて、アルの体重を支えながらだと思うように歩けない。気ばかりが焦るのに、身体はちっとも前に進んではくれなくて、頭の中では方法を考え続ける。  アルをどこかで休ませて、自分だけでも村や街を探しに行こうか。いや、こんな状態のアルを置いていくなんて不安だ、獣にでも狙われたら。それならば、自分でできる範囲の応急処置をしておくべきじゃないか、傷口を縫うとか。  けれど、どの選択をしても悪い結果を招きそうで怖い。決断ができない。判断を間違えそうで、アルを失いそうで、怖くて震える。  いや、弱気になるな。諦めるな。思考を止めるな。アルは、必ず助ける。 「アル、がんばれ。さっき空から、荷馬車が走るような道が見えた。東に向かえばそこに出るはずだから……!」  自分を奮い立たせて、なんとか雪深い森を進む。  アルが、ぐっと呻いて痛みを堪えるようによろめくので、また混乱に陥りそうな心をなんとか見た目だけでも取り繕う。 「医者を……、すぐに医者を見つけるから」  ルシオは必死にアルを支える。 「あー……ルカ。 『ミスティカ』という名のアンティークショップを探してくれ」 「……は?」

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