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第18話 自分より大切なもの

「ルカ、起きて服を着ろ」  甘い朝とは到底言えない、緊迫感を帯びた声にルシオは急激に覚醒する。なにも聞かず飛び起きて、素早く服を身に着けた。すでに身支度を終えていたアルは、口に人差し指を当て、耳を澄ませている。 「どうした?」  アルの表情が微妙にいつもと違う。 「……どうやら、作戦を変えたらしいな。まあ、こっちの対応はそうは変わらん」  そう言って、アルはルシオを抱き上げ、窓を開ける。足をかけ、雪の降り続くまだ日の昇らない暗い空に躍り出た。  冷たい空気が肺にまで刺さる気がする。しっかりとアルの首にしがみ付いて、少しでも空気抵抗が少ないように、少しでもアルが寒くないようにと思う。 「居たぞ! あそこだ!」  代わり映えのない怒号の中を、屋根から屋根へアルが跳躍する。そのとき、 バァンーー! 耳を掠めて銃声が響いた。 「こんな街中で……!」  森の中や街外れの街道でならまだしも、こんな大きな街中で撃ってくるなんて、街の人々を巻き込んだらどう責任をとるつもりなのか。怒りが込み上げてきて、銃の弾道を辿って振り返った。  バァン! バァン! 続けざまに何発も銃声がする。 「大丈夫か!? アル、危ない、どこか身を隠せるところに……!」  銃声は後ろから聞こえているから、ルシオを守るように抱いているアルの背中はがら空きだ。 「チッ、軍まで出てきやがった」 「! え、なに、……軍!?」 「少しスピードを上げる。しっかり捕まってろよ」  言うが早いか、ぐん、と空気の抵抗があったかと思うと、顔に当たる冷たい空気で目も開けられないほどの速さで自分の身体が浮遊したり進んだり落下したりするのがわかった。どん、という衝撃とともに地面に降り立ったのがわかり、そっと目を開けると、どこかの路地裏の闇の中に身を潜めているようだった。 「撒いたのか?」 「わからん」  未だに警戒を解かず、路地裏から表の通りをうかがっているアルの様子が、どことなくいつもと違うような気がした。 「軍って言ったか?」  自分も周囲に気を配りながら、小声で聞く。 「ああ、いつもの修道士じゃなかったな。役人と、あれは王国軍だろう」 「王国軍……って、戦争してるんじゃないんだぞ。僕みたいな子どもを捕まえるだけで軍が動くわけはない」  けれど、アルは表の通りを注視したままなにも答えない。アルの見間違いだとは思う。けれど、街中であんなに無遠慮に発砲してくるなんて、確かに今まで教団からの追手とは違っていた気がする。  妙な不安と、嫌な緊張感が腹の中をぐるぐると回って、この寒さだというのに冷や汗が背筋を伝う。 「居たぞ! ここだ! 助けてくれ! 悪魔がここに!」  驚いて見上げると、路地裏に面した家のバルコニーから住人が叫んでいた。 「悪魔! 化け物め!」  バシャッ!! 叫びながら、バルコニーからなにか冷たい液体を浴びせられた。 「なにっ、なんだ!? 水!?」 「くそ!」  アルはすぐにルシオを抱きかかえて飛び上がる。再び屋根の上に上がると、液体を被った部分が凍るように冷たい。 「……海水だ。なんで……」  口に僅かばかり入った液体は、しょっぱかった。  バァーーン! バァン! バァン! バァン! 容赦なく銃弾が放たれて、肩口を掠めた。アルがルシオを守るように庇ってうずくまる。 「アル! やめろ! 僕を庇うなっ!」  叫んでも、結局はアルに頼らざるを得ない。ルシオは自分も銃を構え、せめてもの抵抗にと応戦するけれど、軍の銃の飛距離や腕と数に対抗するには、なにもかもが足りていなかった。アルに抱えられたまま、肩口から後ろへ向かって撃つけれど、当たるどころか届きもしない。  それに、街の人々に当ててしまったらと思うと、ほとんど撃てなかった。現に、店の看板や、バルコニーの植木、窓のガラスや戸板など、街の家々に被害が出ている。悲鳴があちこちで上がり、おそらく怪我人もすでに出ているのではないだろうか。  それでも、街の人々の憎悪はルシオたちに向いていた。いや、正確にはルシオではなく、アルだった。「悪魔」や「化け物」と呼ばれている対象はアルで、軍もアルを狙って撃っているようだった。  銃声は激しくなるばかりで、屋根の上というのは目立ちやすく標的にするのが容易だとわかる。かと言って、どこかの路地裏や無人の店などに隠れようとすれば、住人や街の自警団のような男たちになぜか海水をかけられた。  銃で撃たれることに比べれば、海水をかけられることなど気にするまでもない。けれど、そうして逃げ惑っている間に、二人はいつの間にか頭から海水が滴り、このままでは凍死するというところまでびしょびしょになっていた。 「……くそ! 森へ向かう!」  ルシオを抱きかかえたまま、アルは屋根には上がらず、狭い路地を巧みに選んで走る。ただ走るだけでも、アルの速さには馬でも敵わないだろうから十分逃げ切れるはずだった。  この街はぐるりと壁に囲まれていて、街への出入りは南と西にあるゲートを通らなければならなかった。東には海が広がっている。 「アル、ゲートはだめだ、絶対に待ち構えられている」 「わかってる。壁を越える」  そう言って、北の壁に向かって走る。北の壁を越えれば、そこには確か森が広がっていた。その森にさえ入ってしまえば、樹々に隠れることができるし、海水をかけられることもないだろう。 「居たぞ! あそこだ!」  街にはいったいどれ程の人数が動員されているのか、大きな街だというのに、どこを走っても軍に見つかった。アルの速さと身体能力がなければ、とっくに二人とも蜂の巣だったはずだ。 「壁だ、このまま登る」  街の外れに見えてきた壁を目掛けてアルがまた僅かにスピードを上げる。そのとき。急にアルが急ブレーキをかけた。 「来たぞ! 気付かれたか、撃て!」  壁の手前の街路樹に姿を隠していたずらりと並ぶ軍の銃撃隊が、命令の一声で一斉にこちらに向かって撃ってきた。アルが一瞬でも気付くのが遅れていたら、アルの前に抱えられていたルシオが真っ先に撃ち抜かれていただろう。  アルは、飛び上がり屋根が重なる部分と煙突の影に身を滑り込ませた。屋根や煙突を猛攻撃する銃撃音に、耳を塞いで耐える。煙突からはみ出して風に煽られたローブがあっという間に穴だらけのぼろ切れになる。 「くそ……っ、こうなったら飛んで」 「だめだっ! 人間の身体でするなって言われただろう!」  ざっくり切れた背中や、蒼白だったアルの顔を思い出すと、ルシオは未だに怖くなる。 「……どちらにしろ、このままじゃ身体は穴だらけだ」 「もう少し西の方へ回ってみよう。手薄な壁があるかもしれない」  ふう、と軽く息をついて、アルは煙突の影から攻撃の隙間をうかがう。ルシオを抱き上げて、死角になる屋根の向こう側へ滑り込む。 「山を追われたときのことを思い出すな……」  ぼそりと言うアルに応えようと思っても、ルシオには口を開く間も与えられない。仕方なくまた家々の隙間に飛び降りて、壁を目指す。 「うわぁぁ! 化け物だ! 助けてくれぇぇ!」「きゃあああああ!」「頼むっ! 子どもだけはっ」「みんな家から出るな!」  アルがなにをしたというわけでもないのに、次々と悲鳴が上がる。ルシオはぎゅっとアルの首筋にしがみついた。当のアルは気にもせず庭を走り抜け、バルコニーを足がかりに跳躍して、入り組んだ路地の狭さを利用して文字通り縦横無尽に駆け回る。  けれど、何度も海水をかけられて、水分が体温を奪っていく。ルシオも奥歯をがちがちと鳴らしているけれど、ルシオを抱えるアルの手が震えていることも気付いていた。 「せめて火器を使ってくれればな……」  吐く息も白く後ろに流れていく。走り回っているからといって身体が温まるよりも、浴びせられる海水と汗が体温を奪って蒸発していく方が上回ってきている。  じわじわとアルの動きが鈍くなっていっていることに気付けるのはまだルシオだけだと思うけれど、持久戦も視野に入れての計画だとすれば、まんまと術中にはまっていることになる。  先に壁が見え始めた。アルは同じ轍を踏むまいと、手近な家の死角に潜み、壁をうかがう。はぁ、はぁ、とアルの息が上がっているところを、ルシオは初めて見た。抱きかかえられたままアルの首筋に顔を埋め、ローブをぎゅうと握り締めた。 「火薬の臭いで鼻が利かん。見たところ兵は手薄なようだ。……羽は出さん、が」  そう言ったかと思うと、アルの足元からぶわりと風が起こり、渦を巻き上げながらアルとルシオを包んだ。 「な、アルっ!」  アルの顔を見てみれば、瞳は爬虫類のように縦に瞳孔が開き、金色に輝いている。赤い髪が炎をまとったように風もないのに重力に逆らって逆立ち、ルシオでも見えるほど、周囲に色のついた赤色の光が覆っている。 「いくぞ」  アルがルシオを抱え直し、壁に向かって走る。数十メートルの高い壁に手をつき、ほとんど反動もなく数度足を壁に走らせて、ひょいと容易に越えてしまった。アルの肩口でほっと息をついた瞬間、ガチャリ、と銃口が一斉にこちらを向いた。 「まあ、そうくるだろうな。想定内だ」  アルはゆっくりと歩を進める。 「撃つのは構わんが、俺の宝を傷つけることは許さんぞ」  アルの異様な威圧感に気圧されて、銃を構えた兵士たちも、撃つことなくゆっくりと後ずさる。 「なにをしてる。撃て」  少し後ろに立つ男の静かな一言で、兵士たちは我に返ったように一斉銃撃を浴びせた。  銃撃音が止んで、硝煙が辺りに散って二人の姿が見え始める。そこには、所々破れ、穴の開いた大きな蝙蝠のような羽の下に、背中で銃撃を受け止めたであろう大柄の男と庇われた無傷の少年が現れた。 「アルっっ!!」  ルシオの悲鳴が辺りにこだまする。ずるりと、アルの身体が崩れ落ちて、体重が全てルシオにかかる。ルシオの肩口にあるアルの顔は蒼白く、けれど口から息は漏れていて、かろうじて息があることが知れた。背中に手を伸ばすとぬるりとした感触とともに、どこから出ているのかももうわからない鮮血が手のひら全体に付着した。 「アルーーっ、いやだっ、アルっ!?」 「……ああ、騒ぐな、大丈夫だ……まだ、壊れてはいない」  アルが小さな声で応える。あれだけの集中砲火だったにも関わらず、とっさに出した羽と、さきほどの風や光の魔力の防御層で、ルシオはほとんど無傷だったし、アルもどうやら致命的な怪我を避けたらしい。  けれど、アルの羽も、ローブも、腕や背中も、どこもかしこも銃撃を受けた傷は負っていた。ずるずるとアルの身体が雪の上に倒れ込んでいく。ルシオにはその体重を支えることしかできなかった。  ぎゅっとアルの肩口のローブを握り締め、顔を上げる。 「……狙いは僕だろう。アルが邪魔だったか」  そっとアルの身体を雪の上に寝かせ、ローブの下に着ていたサイズの大きな上着を脱いでアルの上にかけた。 「アル、長い間借りていてすまない。今、返す」 「……なに、言ってる。おい、」  ルシオは立ち上がり、アルを庇うように前に出る。 「僕が教団に帰る、それでいいだろう。アルは僕がいなければ自分から誰かを傷つけたりはしない。放っておいてやってくれ。化け物はここで退治した、それでいいだろう」 「賢明な判断です」  木立の向こうから、一人の青年が姿を見せた。先ほど撃てと命令したのも、この声ではなかったか。けれど、その服装は、まぎれもなく教団の修道士だ。灰色の瞳が、無感情にルシオを睥睨している。 「話が早くて助かります」  青年が目で合図をすると、兵士たちが恐る恐るといった具合に近寄って来る。けれど、兵士の手がルシオにかかる寸前で腕を捻り上げられた。 「ぎゃああ!」 「アルっ!」  アルが起き上がって、兵士を突き放した。 「まだ動けるのか、あいつ……っ!」 「なにを勝手に決めている。離れることを俺が許すと思うか?」  右のこめかみからも、下に降ろしたままの左腕からも、血が流れ落ちて白い雪の上に赤く染みを作っている。銃が構えられるのを見て、ルシオがアルの前に立ち塞がった。 「アルっ、やめてくれ、もう動くな。僕はもう、いい加減疲れたんだ。追われて、狙われて……、教団に戻った方がましだ。 アルを傭兵として雇う契約も、ここで終わりだ」  ぎゅっと服の上から胸元を握り込む。アルは黙って目をすがめてルシオを見ている。その瞳にはあたたかさや優しさといった、ルシオの愛した光はどこにもなく、ただ怒りと憤りが渦巻いているように見えた。 「ここでお別れだ。さようなら、ありがとう、アル」  兵士たちの方へ進むルシオに、アルはもうなにも言わなかった。  拘束されるかと思っていたけれど、意外にも青年はルシオを拘束しなかった。そんなことをしなくてもルシオが逃げないとわかっているようだった。 「約束してくれ。アルを傷つけるな、殺さないでくれ」 「……約束しましょう」  青年に促されて馬車に向かう間、ルシオはぎゅっと拳を握り、振り返って走り寄りたい衝動を耐えた。  ルシオは客人のように馬車のふかふかとした座席で揺られていた。逃亡した神子という扱いで拘束されて荷台にでも転がされると思っていたけれど、はす向かいに座る修道士は、ルシオを自分の乗ってきた馬車に一緒に乗せた。  修道士はなにも話すなとでも命令されているのか、それとも元より無口なのか、ルシオには目もくれず本などを読んでいる。だから、ルシオは気を紛らわせることもできなかった。  また窓の外に視線を移し、馬車の車輪が轍を踏む音を聞いていた。一瞬でも気を抜くと叫び出しそうで、馬車から飛び降りてアルの元へ走ってしまいそうで、ルシオは腹と奥歯に力を入れた。  胸は千切れるほどに痛み、その傷口からなにかが吹き出しているのではないかと思う。アルの血が着いたままの手を握り締めて、どうか、あの後のアルが無事に逃げられているように、身体の傷がちゃんと手当てできるように、アルが生きていてくれるようにと願った。  目に浮かぶのは別れ際のアルの怪我と血にまみれた背中、そして怒りを湛えた瞳。アルは、ルシオの言葉が本心ではないことくらいわかっているだろう。アルを気遣って自分が犠牲になろうとしていることも。それが気にいらないのだ。自己満足で、自己犠牲的な、一番アルの嫌う方法だったのだろう。  けれど、あのとき、アルが死んでしまうと思ったとき、ルシオには選択肢がこれしか思いつかなかった。どんなにアルに怒られても、嫌われても、アルからの信頼を損なっても、アルが救えるならそれでいいと思った。ルシオにもアルを守れる。力のないルシオが大切なものを守るには、身を削るしかなかった。  いつの間にか日は登っていたようで辺りは薄ぼんやりと明るくなっていたけれど、雲が厚く垂れこめているせいで夜と昼の境目もわからない。色を失くした景色の中を雪だけが延々と降り続いていた。  ガタゴトと揺れる景色を眺めているうちに、ふとあることに気付く。 「……北の塔に向かっているんじゃないのか」  窓の外を見たまま、誰にともなく独りごちる。 「王都ですよ」  王都? なぜ、王都なんかに。逃亡した神子を一度王都で罰しようというのだろうか。その方が見せしめにもいいのかもしれない。  男が意外にもきちんと受け答えをしてくれることがわかって内心驚いた。 「アルを攻撃したのは、なぜだ」  この修道士ならば答えてくれるかもしれないと、気になっていたことを尋ねてみた。目的はルシオだった。それは攻撃されている最中もそう感じていた。それなのに、攻撃はアルにばかり向かっていて、それがルシオには耐えられなかった。 「彼を攻撃すれば、あなたは必ず自分から私たちの元へ来てくれると思いました」  胸元を強く握る。 「アルを、利用したのか」  男が初めて本から顔を上げてこちらを見た。 「言い訳はしません。あなたをどうしても捕えたかった。その為に利用できるものはなんでもします」  は、と息が漏れる。腹の底から怒りと後悔が湧いて出る。自分自身に対しての怒りだ。  もっと早く離れていれば良かった。最初からこうなることは予測できていたはずで、だからこそ、拒んでいたのではなかったか。アルに幸せになって欲しいと、巻き込みたくはないと、そう思っていたのではなかったか。なぜ、もっと早くアルから離れなかったのだろう。いや、違う。自己犠牲はアルが嫌う。だから、僕は僕の望みを、誰にも譲れなかった。だから。だから。その結果が、これなのか。自分の望みの為にアルを傷つけたのだろうか。  呼吸が上手くできない。  胸の石は、アルに返せなかった。本当なら、この石こそを返さなければならなかった。けれど、どうしても、この石を手放したくなかった。この石さえあれば、アルと繋がっていられる。まだ、アルと繋がっていられる。どんなに遠く離れても、喚べば来てくれる。その望みだけが、今のルシオを生かしていた。  痛む胸を押さえて、ルシオは目を閉じた。  その日の夜、ルシオたちの乗った馬車は王都に入った。光に照らされる大聖堂を横目に、司教や司祭たちの暮らす屋敷の庭へと馬車は乗り入れた。広大な敷地に建つ屋敷は、下手をすれば王宮並みの広さと豪華さを誇る。その裏手に馬車を回し、ルシオは初めて教団の本部の地に足を踏み入れた。  男に案内されて裏口から入り、一際大きな扉の前で立ち止まった。ノックして、男が声をかける。 「ルシオを、連れてきました」 「入れ」  正面に見える広々としたバルコニーの手間に、深紅のビロード張りの椅子がある。その椅子の上で波打つ金糸のようなプラチナブロンドが、ふわりと広がりながらこちらを振り向いた。 「ルシオ!」  夏の湖のようなエメラルドグリーンの瞳を輝かせながら、美しい顔を喜びにほころばせて、青年が駆け寄ってルシオに抱きついた。 「……アーク」 「会いたかった、ルシオ……!」  アークは、はしゃいだ様子で嬉々としてルシオを招き入れる。 「ルシオ、汚いなぁ。キリル、お湯を入れてよ。 ね、ルシオ、一緒に入ろう? 私が洗ってあげるから」  海水と血が乾いてどろどろのルシオを頭から足先まで眺めて、アークは修道士の男にそう言った。ルシオは、眉をひそめて自分の腕を掴むアークの手をそっと掴んで離す。 「アーク……、僕をここへ連れて来させたのは、お前だったのか」 「そうだよ。大司教たちも司祭たちもちっともお前を捕まえられないんだもの。役立たずばっかり」 「アルを……、僕を捕まえるために一緒に居た男を攻撃したのも、王国軍なんかを出動させたのも……、お前か?」 「……そうだよ。私だって少しは力が持てたでしょう? 私が頼めば軍だって動かしてくれるんだから」  アークは再び椅子に座って窓の外を眺める。その視線の先には大聖堂が高くそびえ立っていた。 「なぁんでそんなつまんないこと気にするの。もう終わったことじゃないか。 そうだ! 舞を見せてよ! ルシオの舞、私がとても好きだった舞、見たいな。お風呂で汚れを落としたら、衣装を見繕ってみようか。ルシオに似合うものを作らせてもいいし!」  アークはルシオの手をとり、弾んだ足取りで浴室に連れて行った。  バスタブにはキリルがお湯を入れ終わった頃で、ルシオが見たこともないような泡立ったバスタブの中身と、嗅いだこともないような華やかな香りの石鹸や花が並んでいた。 「お手伝いしますか」  キリルが尋ねる。 「いらない。もう出て行っていいよ」 「外におりますのでなにかありましたらお声をおかけください」  その言葉も無視して、アークはルシオの服に手をかけた。ほかの人間に触れられると拒否反応を示すルシオも、なぜか表情もなく、まるで人形のようになすがままになっている。  嬉々としてルシオの服を脱がすアークの手が止まる。先ほどまで子どものように無邪気に笑っていたアークの顔が瞬時に冷たくなる。 「これ、なに」  アークがルシオの胸元に下がる糸で巻かれた石に触れようとした矢先、ルシオが握りこんでアークの手を避けた。 「なにそれ。私が触ってはだめなの」 「これはだめだ。これだけは……、あとは、好きにしていいから」  じっとルシオを怜悧に見咎めていたアークが、ふっと笑顔に戻る。 「いいよ、わかった。ルシオの宝物なんだね」  もう触らない、と示すかのようにわざとらしく両手を軽く上げた。警戒を解くわけにはいかなかったけれど、それ以上隠すと余計にアークの興味を引くだろうこともわかっていたルシオは、そのまま何事もなかったように振る舞うしかなかった。  二人とも全裸になって、甘い香りのするバスタブに身を浸ける。アークは鼻歌を歌いながら柔らかいスポンジでルシオの背中を丁寧に撫で、身体に付いた海水や泥や血を落としてくれる。 「ねえ、ルシオ覚えてる? ルシオの舞はとてもすてきで、私は大好きだった。どんなにルシオに教えてもらっても、練習しても、ルシオには敵わなかった」  アークの金糸の髪が泡の中を柔らかく揺蕩(たゆた)い、背中にぴたりとアークの胸が押し付けられている。柔らかい手が前に回ってきて胸や腹を撫でられ、ルシオは耐えるように眉間に皺を寄せた。 「私はちっとも舞が上手に舞えなかったのに、司祭さまにご褒美をあげるって部屋に呼ばれるのは私だった」  ルシオはなにも言わずにアークの好きにさせている。 「私が初めて司祭さまに呼ばれた日、ルシオも一緒に泣きながら身体を拭いてくれたよね」  アークは後ろから抱きしめて、項にキスをする。ルシオはその手を振り払うことができなかった。  アーク自身は自分の髪を洗うときにキリルを呼びつけたので、キリルが絹のような髪を丁寧に愛情深く洗うのをルシオは不思議な気持ちで見ていた。  湯から上がると、キリルに持ってこさせた衣装をせがまれて何着も着替えた。舞の衣装は、司祭や貴族たちの嗜好を反映させて作られたり、贈られたりすることが多い。人気のあるアークともなるとそれは顕著で、大量の衣装や、装飾品を広いベッドにひろげていた。  アークは嬉々としてルシオに衣装を合わせているけれど、そのどれもが薄い透けるような紗だったり、布面積が小さすぎてどこを隠すのかという具合だった。 「これ、着ているのか」  うんざりしながらルシオが聞くと、アークも両手を広げながら言う。 「バカだよね、こんなので喜ぶんだから。全部を着たことはないかな。祭事の舞も年に数回だし。でも、祭事関係なく自分が贈った衣装を着て相手をして欲しいって言ってくる奴もいるから捨てられないんだよね」 「……そうか」  アークの生活や、今までの人生を想像するにつけ、痛ましく、怒りすら湧く。  最初はアルに対しての仕打ちが許せず、アルのことを気にすら留めていないような無邪気な態度に不気味さすら感じていた。それでも、数時間も過ごせば、幼い頃のアークや辛いことを一緒に耐えた思い出が、アルをあんな目に合わせたのは本当はアークではないのかもしれないとすら思わせ始めていた。そのとき。 「アーク様、お待たせいたしました」  キリルが銀製のワゴンに、パンやスープ、薄切りにした肉やサラダなど、夜食にしては豪華な軽食を運んできた。 「ほら、ルシオ、道中ほとんど食べてないって聞いたから」  グラスにルビーのようなワインを注ぎながら、バルコニーの近くのテーブルを勧めた。正直、アルのことを思えば食欲もなかったし、肉を見ても酒を見てもアルを思い出す。迷ったけれど、アークのご機嫌を損ねるわけにはいかない。黙ってテーブルに着き、アークが差し出すグラスを受け取る。 「再会できて嬉しいよ、ルシオ」  二つのグラスがぶつかる小さな音を聞くと、ルシオはワインを口にした。そして、ルシオの記憶はそこで途切れる。

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