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3-蜂蜜たっぷり生姜湯(1)

しまった。迷った。 総務部に用があって、社内の初めてのエリアに来たんだけどさ。 帰り方が分からない。 いや、来た道を戻ればいいのは分かってるんだ。でも、その来た道が分からない。 何回かセキュリティ掛かってる扉をくぐって、なんだか見慣れない通路を歩いてきたのは憶えてるんだけど。 辺りを見回しても、どのドアもセキュリティはきっちり掛かってるし、どの通路も見慣れない。 果たしてこの扉を開けたら、同じような廊下が続いているのか、それとも他部署の事務室に入っちゃうのか? まさかお偉いさんたちが会議やってて、扉開けた瞬間に一斉に俺の方見たりしたら、走って逃げるよ、俺。 そんなの怖すぎるよ。迂闊にその辺の扉開けられないよ。 あああ、どっち行ったらいいんだろう。まだ開けてないのはこの扉かな。階段に出られるかな。 ドアノブに手をかけようとした時、後ろから声がした。反射的に俺は笑顔で振り返った。 当たり前じゃん! だって城崎さんの声だったんだから。 「何やってるんですか、白田さん。こんなところに何の用が?」 言いながら近づいてきた城崎さんは、ドアを開けようとしていた俺の手を掴んで、どこかに引っ張っていこうとする。 ん、え、どこ行くの? ……ま、どこでもいっか。 どこに連れてってくれるんですか、城崎さん? 手を引かれるままに廊下を歩き、なんとエレベーターホールについた。 あんなに探し回っても見つけられなかったのに。どういうこと。 俺がきょときょとしていたら、城崎さんに訊かれた。 「どうしてあんなところにいたんですか?」 「総務部から法人事業部に戻ろうと思って。迷っちゃったんです」 ぱちぱち。俺の言葉を聞いて、城崎さんが呆気にとられたように瞬きをした。 「総務部から? それはずいぶん遠回りをしましたね」 「あ、やっぱり間違ってましたか」 はぁ、城崎さんはびっくり顔まで美しい。俺が驚かしたんだよ。びっくりしてもこんな綺麗なの、ちょっと皆も見てよ。 「間違ってたも何も、さっき白田さんが開けようとしてたのは、支社長の部屋ですよ」 は! 「止めておいて良かった。次迷った時は覚えておいてくださいね」 俺は声もなく、こくこくと頷いた。やらかすとこだったよ! 俺! ◇ ◇ ◇ 法人事業部のフロアへ降りるエレベーターの中。ふんわりと良い香りがする。 「香水、ですか? 城崎さんいい匂いがします」 「あ、すみません。きついですか? 普段は付けないもので、慣れなくて」 「いえ! 全然きつくないです。ちょうど良いと思います。なんで今日は付けたんですか?」 城崎さんがすれた策士の顔で笑った。 ああ、訊くんじゃなかった。これはあれだ、アレ絡みだ。 「ちょっと勘違いされたみたいで……私がこんなことを言うのは失礼ですが……しつこい方がいらっしゃいまして。奥様にお知らせしようかなと。腰に付けたので、肌が触れた時にはしっかり香りが移ったと思います。ふふ」 城崎さん、舞台の裏側歩いてるよ……。 俺はいつか、城崎さんがこんな顔で笑わなくてすむようにしたいんだ。 だって、城崎さん笑ってるけど、俺や灰谷に見せてくれる笑顔と全然違うもの。 城崎さんはもっと優しい顔で笑えること、俺は知ってるもん。

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